い。(化粧テーブルの上を頤で指す)
隣の女  あら、もう一度分きりないわ。

[#ここから5字下げ]
隣の女が、ヘチマコロンの瓶をもつて出て行くと、彼女は、炊事場にはひる。やがて、両手にナイフを持ち、「守るも攻むるも」の節に合せて、刃を砥ぎながら現れる、何か探し物をするらしく、部屋中を一と廻りするが、そのまゝ、また炊事場にはひる。ドアをノツクする音。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
彼女の声  どなた?
外の声  僕……。
彼女の声  僕ぢやわからない。
外の声  僕ですよ。わからないかなあ。
彼女の声  多田さんね。なんべん来たつておんなじよ。まだ帰つてやしないわ。

[#ここから5字下げ]
ドアが開く。多田現れる。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
多田  奴さん、用がある時に限つてゐないんだから、始末にいけないなあ。
彼女  (現れ)ゐさうもない時に来るからわるいのよ。朝出て晩帰つて来るぐらゐのことはわかつてるでせう。
多田  不断はさうさ。だけど今先生仕事がないんだもの。
彼女  ないから探しに行くんぢやないの。
多田  (椅子に腰かけテーブルの上の新聞を取り上げ)今日は何処へ行つたの?
彼女  その、印《しるし》のつけてあるとこでせう。
多田  なるほど、これやよささうだ。志操堅固なる青年紳士を求むか。
彼女  なに笑つてるの?
多田  僕にも一つ、心当りがあるんだけれど、まあ、こつちがうまく行かなかつた時のことにしよう。
彼女  あんたの心当りつていふのは、新聞広告より、もつと当てにならないわ。
多田  こなひだのは、あれや、失敗だ。独身つていふ条件があつたのを、つい、先生にいつとくのを忘れたんだ。
彼女  嘘を吐《つ》けば、後で困るぢやないの。第一、人を使ふのに独身を条件にするなんて、間違つてるわ。
多田  家を貸すのに、子供がない夫婦つて注文を出すやうなもんでね。つまり気休めさ。
彼女  お茶、飲む? 飲まない?
多田  飲む。
彼女  冷たい紅茶よ。お砂糖いる? いらない?
多田  いるさ。
彼女  そんなもの、あつたか知ら……。

[#ここから5字下げ]
彼女は炊事場から茶の道具をもつて出て来る。注ぐ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング