あの星はいつ現はれるか
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)葉絵子《はゑこ》

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     一

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葉絵子は父の書斎に呼ばれました。
父は生物学者です。今、調べものゝ手を休めて、葉絵子の方に向き直りました。
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父  まあ、そこへお坐り。
葉絵子  また、お煙草の煙でいつぱいですわ。
父  窓をあけると寒いからね。少し我慢をおし。
葉絵子  御用つて、なんですの。
父  葉絵子《はゑこ》は、今年、幾年《いくつ》になつたんだつけな。
葉絵子  あら、いやだ、そんなこと御存じないの。
父  念のため訊いてみるんだ。返事をおし。
葉絵子  十八ですわ。
父  十八だらう。さうすると、うちのお祖母《ばあ》さんがこのお父《とう》さんを生んだ年だ。
葉絵子  知つてますわ。
父  お前は、何時になつたら赤ん坊を生むんだい。
葉絵子  いやなお父様ねえ、お嫁に行かなくつちや、赤ん坊なんか生めやしませんわ。
父  葉絵子は、お嫁に行くときまつてるのかい。
葉絵子  きまつてやしませんけれど……。
父  お嫁に行くとすれば、どういふ人のところへ行きたい?
葉絵子  そんなこと、まだ考へてませんわ。
父  今、考へてごらん。
葉絵子  急に考ろつておつしやつたつて、無理ですわ。
父  無理なもんか。そんなことは、もうそろそろ考へておかなけれやいかん。そんならわしから訊くが、家へ遊びに来る若い男たちのうちで、この人ならと思ふ人があるか。
葉絵子  こつちでばかりさう思つても、しやうがありませんわ。
父  なるほど。では、向うでもさう思つてさうな男がゐるかい?
葉絵子  そんなこと、どうだか知りませんわ。
父  ほんとだね。
葉絵子  ほんとですわ。
父  よし。そんなら、今のうちに云つといてやるが、近頃一番度々やつて来る大隈《おほくま》といふ男ね。
葉絵子  欽《きん》一さんのことでせう。
父  あの男は、もうぢきお前に結婚を申込むよ。
葉絵子  ……。
父  どういふ方法で申込むか知らんが、兎に角、今、お前の心を試してゐる最中だ。こつちが少しでも油断をみせたら、すぐにそれに乗じやうと待ちかまへてゐる。こんな風に云ふと、お前にはわからんかも知れんが、お前があんまり馴れ馴れしくすると、それをいゝことにして、向うでもだんだん馴れ馴れしくして来る。そのうちに、あの男の云ふことを、お前はいやだと云へなくなるんだ。いゝかい。そこが大事なとこだ。相手さへ立派な男ならそれやかまはんさ。ところが、あの大隈といふ男は、お父さんの眼鏡ちがひで、性質と云ひ、才能といひ、どうも感服できないところがある。今更、来るなとも云へんが、お前にとつては一番危険な人物だ。お世辞もいゝし、風采も学生らしく小ざつぱりしてゐるし、麻雀やトランプは上手だし、うつかりすると、お前なんか、それだけで、好きになりさうな男だ。ところが、あの男の欠点は、第一に見栄坊《みえばう》といふことだ。することに裏表がある。知らないことでも、知つてゐるやうに見せかける風がある。これは、ある程度まで人に取り入つて、一時は重宝がられることもあるが、決して大を成すわけに行かない。第二には、極端な利己主義者といふことだ。学者などにはよくあるやつだが、これも人間として頼母《たのも》しくない。第三に、物事を深く究めないといふ癖のあることだ。学問の方のことにしてみても、上《うは》つ面《つら》だけわかれば、それで満足するといふ風がある。
葉絵子  さうおつしやると、あの方の好いところは、丸でないわけね。
父  ないこともない。第一に、お前のために、あんなに時間を割いてくれるところなんか、ほかの男には、ちよつと出来ない芸当だ。お前に対して、あんなに好意を寄せてゐることは、なんと云つても、あの男の一番感心なところさ。
葉絵子  お父さま、それ皮肉でせう。
父  いや、決して皮肉ぢやない。これは、お前よりも、わしが有りがたく思つてゐることだ。しかし、有りがた迷惑といふこともあるからな。
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     二

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葉絵子は、父の書斎を辞して、自分の居間に帰ると、そこには、母が待つてゐました。
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母  お父さまの御用はすんだのかい。
葉絵子 えゝ。
母  どんな御用だつたの?
葉絵子  なんでもないの。学期試験の準備はどうだつて、お訊きになつたのよ。
母  ほんとに、さう云へば、遊ぶのはもういゝ加減にして、そろそろ机にお向ひなさいよ。あゝして三日にあげず麻雀やブリツヂばかりしてるのが能ぢやありませんよ。大隈さんにもさう云つて少し遊びにいらつしやるのを控へていただかなくつちや……。
葉絵子  だつて、欽一さんにだけそんなことおつしやつたつて駄目よ。
母  だからさ、あの人さへ来なけれや、ほかの人達だつて遠慮をするからね。
葉絵子  どうだかわからないわ。関《せき》さんなんか、何時でも、大隈来てませんかつて、平気ではひつてらつしやるわ。
母  あんたはね、大隈さん大隈さんつていふけれど、あの方は、あんたのところへ遊びにいらつしやるんぢやないんだよ。
葉絵子  あたしのところでなけれや、誰のとこへなの? 母《かあ》さまのとこ?
母  馬鹿お云ひ。あれはね、ほんとは、お父さまとお話がしたくつていらつしやるんだよ。お父さまは近頃お忙しいもんだから、めつたにお会ひにならないけれど、学問上のことで、いろいろお訊きになりたいこともあるだらうし、お父さまのやうなその道の権威と、できるだけ接近しておかうつていふ野心もおありだらうし、それや、そんなことは、今時の若い人は、みんな考へてるんだからね。
葉絵子  あら、そいぢや、あたしが、だしに使はれてるんだつておつしやるの。
母  だしつていふこともないだらうけれど、あの方が、あんたばかりをあてにこの家へいらつしやるんだと思つたら、それは考へ違ひだつていふことを。
葉絵子  ……。
母  母さんが、なぜそんなことを云ふかつて云へば、あんたを不幸な目に遭はせたくないからだよ。娘の頃には、誰でも一度は経験することだけれど、自分の気に入つた人からは、なんでもないことをされても、それが妙にうれしい。向うはそのつもりでゐなくつても、こつちは、自分勝手に、好意を示されたつもりでゐることがある。そんな妙な顔をするのはおよし。ほんとを云へば、母さんも、大隈さんは、しつかりした方だと思つてゐる。学問もお出来になるさうだし、誰の前に出ても如才はないし、それでゐて、さういふ人にあり勝ちな気障《きざ》つぽいところもなく、淡泊で快活で、真剣味もあり、近頃の青年には珍しく古典的な教養をもつた方だと思つてゐる。
葉絵子  お家《うち》がいゝからよ。
母  うむ、お家もいゝにはいゝ。外交官の、それも大使にまでおなりになつたお父さまなんだから、万事抜け目のない教育をなすつたに違ひない。それに、お母さまも、なかなかよく出来た方だつていふから……。
葉絵子  さうよ。
母  それや、あんたも、あゝいふ方と未来のお約束ができれば、無論、申分はないさ。しかし、これは外のことゝ違つて、一方がどう思つても仕方がない。いゝえ、母さんにはわかるんですよ。あの方は、今のところ、決して、あんたをさういふ目で見てはいらつしやらない。それや、親切らしく見えることはあつても、社交に馴れた紳士つていふものは、必ず、相手に快感を与へるやうな態度を見せるもんです。殊に西洋風の教養を受けた男の人は、婦人に対して、特別な心遣ひを示すのがあたり前だ。それを礼儀と心得てさうするんです。
葉絵子  でも、あの方、あたしに、かうおつしやつたことがあつてよ。……でも、よすわ、そんなこと云つたつて、しやうがないから……。
母  そんなこと云はないで、聞かして御覧よ。なんておつしやつたの。
葉絵子  たつた一言。それを云へば、母さまの御意見は、全然、ひつくり返るわけよ。
母  へえ。どんなことだらう。
葉絵子  それは、まだ云はないつと……。
母  それも、あんたの解釈が間違つてゐたらどうします。
葉絵子  解釈つて、あの方、日本語でおつしやつたんですもの。
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     三

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葉絵子は、その晩、大隈がやつて来るのを待ちうけて、二人きりで話をする機会を作ります。少し寒い晩ですが、物干台に上つて、星の説明をして貰ひました。
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葉絵子  さうすると、幾十年目かに現はれる星は、計算すれば、ちやんとわかるんですのね。
大隈  さうなんです。星の話は、もうこれくらゐでいゝでせう。寒くつて、風邪を引くといけませんよ。
葉絵子  あたくしなら、大丈夫ですわ。去年の夏は海へばかりはひつてましたから、皮膚はそれや強くなつてますの。それよりね、欽一さん、あたくし、あなたに聴いていたゞきたいことがあるんですの。
大隈  伺ひませう。だけど、こんな、お星さまの下でなけれやいけないんですか。
葉絵子  えゝ、まあ、その方がよろしいんですの。いくらか関係もあることなんですから……。それはね、あるお友達のことで、今困つてることがありますの。あたくし、一人で考へてみてもよくわかりませんから、ぜひ、あなたに伺ひたいと思つてゐましたの。
大隈  あなたのお友達のことで、僕に相談なさることつていふと、一体、どんなことでせう。僕に関係したことですか、あなたに関係したことですか。
葉絵子  さあ、それは、あなたの御意見次第で、あたくしたちに関係のある問題になるかも知れませんけれど、今のところ全く第三者としてお話をするんですわ。
大隈  僕は、どうかすると、自分自身のことでも、非常に冷静に考へる習慣がついてゐます。科学者の長所も欠点もこゝにあるわけです。さ、お話しなさい。
葉絵子  そのお友達といふのは、あたくしと同《おな》い年《どし》ですけれど、若し結婚するとしたら、その結婚の相手は、自分で選ぶつもりでゐたんです。ところが、家へ遊びに来る若い男の方のうちで、これならと思ふ方が一人あるんですの。むろん、この人でなければならないつていふほどの気特にはなつてゐませんのよ。
大隈  そこが少し暖昧だが、まあ、先を云つて御覧なさい。
葉絵子  その男の方は、大変慎み深い方で、まださういふやうなことについては、なんにも口に出しておつしやらないんですけれど、お友達の想像では……。
大隈  待つて下さい。想像ですか。想像はいけません。はつきりしたことだけ云つてみて下さい。それでないと、正確な判断が下せませんから……。
葉絵子  でも、あたくしたち、若い娘の考へることつて云へば、半分以上、想像みたいなもんですわ。ぢや、それはよして、事実だけ申上げてみますわ。そのお友達のお父さまとお母さまとが、その男の方について、全然反対な意見をもつていらつしやるんですの。お父さまの方は、かうおつしやるんです。――あの方は、お前に対して好意以上のものをもつてゐるやうだが、性格と云ひ、才能といひ、お前の未来を托するに足らない人物だ……。
大隈  へえ、才能が乏しいつて云ふんですか。
葉絵子  まあ、さうですわ。物事の表面しか見えない……。
大隈  それで、お母さんの方は、どういふんです。
葉絵子  母の方は……いえ、お母さまの方は、――その男の方の人物については申分がない。しかし、あの方は、たゞ、社交上の礼儀を知つてゐるだけで、決して、あんたを特別な眼でみてゐるわけぢやない。愛されてゐると思つたら大変な間違ひだ。
大隈  あなたは、お父さんとお母さんの意見をあべこべにおつしやつてるんぢやありませんか。
葉絵子 
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