『日本を観る』の序に代へて
岸田國士

 われら日本人は先づわれら日本人のなんたるかを識らねばならぬとは、近頃誰でもが口にするところであるが、その「識り方」にはいろいろの角度があつて、これをおほざつぱに分けてみても、自信をもつための識り方と、反省警戒の資料としての識り方とがあると思ふ。これが一方に片よりすぎると、常に「正確な認識」から離れて、なんの役にも立たぬことになるのである。
 百戦危ふからざらんがためには、敵を知ると同時に己れを知らなければならぬのであるから、われわれが自分自身を識るといふことも、畢竟わが民族の発展を可能ならしめる素質とその運用について考慮をめぐらす基礎にしようといふ以外に目的はないのである。
 そこで、私は、個人の場合なら、他人が何と云はうと意に介しないといふ行き方を好むものであるが、事、国に関する限り、他処の目がわれわれを何と観てゐるかを大いに注意せざるを得ない。
 故意に事実を枉げてわれわれを誣ふる言は固より問題とするに足らぬ。また、多分の衒ひと先入見を交へた批評は、たとへそれが痛いところを突いたつもりでも、われわれにとつて、もはや、ありがたい「参考」にはな
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング