が、彼は、敢てこの形式を棄てない理由は、まさに「事相」に対する彼の詩的把握によるものだと思ふ。即ち、現実のイメエジは、彼の心眼に、ある姿態《ポオズ》を映すよりも寧ろ、ある「韻律《リズム》」を響かせて流れすぎるのである。
 この意味で、彼の戯曲は、ユニックであり、今度創作座が取上げた『赤鬼』も亦、彼をして思ふ存分の筆をふるはせたなら――といふ意味は、もつと十分の枚数を与へたら――その出世作『馬』以上の特色と深さとを示し得たであらう。
 由来、日本の劇作家は、所謂「新劇」の分野に於てすら、「大人」を大人として、即ち、年齢によつて熟しきつた性格の全貌を、そのまま対象として選ぶといふ必要な冒険を試みたものは極めて少いやうである。作家自身が一般に若いといふせゐもあるが、それよりも、何かもつと安易な動機からであるやうな気が僕はするのである。
 阪中君の作品は、上演してみるとわかるが、俳優の巧拙は別として、それぞれの役に、少くともその年齢に達した俳優が扮しなければ、ほんたうの「面白い人物」にならないところに、恐るべき作品生理の秘密があるのである。これは、当然なことのやうだが、その当然さを、彼の作品ほ
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