頼まれず、誰からも勧められずに観に行つた。
○『桜の園』の幕が明いた――嘗て、シャン・ゼリゼエの舞台でのやうに。たゞ、「白い鴎」の浮き出た幕が、さうでないだけの違ひ。
○皮肉でなく、お世辞でなく、僕は新劇協会の『桜の園』を非常に面白く観た。
○上演者は、たしかにモスコオ芸術座の『桜の園』が、どんなものであるかも知つてゐるだらう、少くとも或る程度まで研究してゐると僕は思つた。この態度は誠に頼母しい態度である。――誤解されては困る。真似る真似ないは別問題だ。
○真似てもいゝ。真似以上のことが出来ないと思つたら、潔く真似るがいゝ。真似が、さう楽に出来るものかどうか。
○外のものなら兎も角、この『桜の園』でほんたうにオリヂナルな演出を、誰にでも望むことは、望む方が無理である。失礼な言ひ分かも知れないが、若し新劇協会がモスコオ芸術座以上の、少くとも、それ以外の演出法を試みようと企図したならば、その演出は、恐らく、大なる失敗に終つたであらう。
○これだけのことをいつて置いて、扨て、新劇協会が、果して、『桜の園』を正しく、――言葉がわるければダンチェンコ及びスタニスラフスキイの解釈した如く解釈してゐるかどうかを考へて見よう。
○僕は、大体に於て、その解釈の近いことを欣ぶものである。各人物の性格表現に、どうかすると「はてな」と思はれる節もあるが、それは、「技芸」殊に「柄」の問題を除外して論じることは不当のやうに思はれる。ラアネフスカヤ、ガアエフ、ロパアヒンについて、前に述べたことは、直接、此の点に触れたつもりである。
○当夜、かういふ考へが、一寸、僕の頭をかすめた。チェホフの『桜の園』と云ふ戯曲は、もうちやんと僕の頭の中で舞台が出来上つてゐる。殆ど理想的な舞台が出来上つてゐる。で、今眼の前で、誰かゞ、『桜の園』を演じてゐるといふ一つの想念、或は、たゞ、あの椅子に腰をかけてゐるのがラアネフスカヤで、今、何かしやべつてゐるのがガアエフだといふ、たゞそれだけの事実が、僕の心の中に常々ひそんでゐる『桜の園』の幻影を再び浮び出させるのではあるまいかと。
○たとへ、さうであつても、その幻影は、実際、眼に映じ耳に響く不快な影と響とで容赦なくぶち毀さるべき性質のものである。
○それが、さうでなく、その幻影を、そのまゝ活かすとまでは行かないでも、決して、台なしにしてくれなかつたこ
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