のおほまかな、素直な、どつしりした芸風が、ぴつたり、そこに嵌つてゐた。
○ロパアヒンは善良な「俗物」である。が、そのことは彼が一つのプリンシプルを有つてゐることを妨げない、――そのプリンシプルが彼を聡明にしてゐる。聡明にはしても、「インテリゲンツィア」にはしない。そこに此の人物の面白さがある。医者にも、学者にも、弁護士にも「俗物」がある。殊に「大学出の実業家」と称する俗物もある。さう云ふ俗物になつてはいけない。それにはレオニドフのロパアヒンを見なければならない。
○『桜の園』の人物は――チェホフの人物はと云つてもいゝ――彼等は常に話しかける、或る時は彼等の周囲に、或る時は彼等自身に、そして屡々彼等の「幻」に……。沈黙に耳を澄ますことを知らなければ、彼等の言葉は空虚である。
同時に、その「幻」を完全に描き出すことが出来れば、その演出は成功である。
○いちいちの役割について、今、あの時の印象を述べることは無駄な気がする。僕の読んだ仏語訳に十分の信用が置けるものとして、また、僕の「戯曲を読む術」がそれほど怪しいものでないと云ふ自惚れを土台にして、モスコオ芸術座の演じた『桜の園』は、たしかに僕の最初描いてゐたイメージ、それ以上の光彩と深さとをもつて僕の脳裡に刻みつけられてゐる。
○チェホフの戯曲を、モスコオ芸術座以外の劇団が演じる時に、必ずしも、範を前者に取るべきだとは云へない。そんな馬鹿な話はない。現に、ピトエフは、ピトエフの『鴎』と『ワアニャ叔父』とをもつてゐる。その演出が、若しスタニスラフスキイに及ばないとしても、それは、決してピトエフがその旧師を真似ないからではない。
○モスコオフインの扮するエピホオドフでさへ、あれを見て、誰があれ以上のエピホオドフを想像し得ないだらう。
○旅興行の不自由さからであらうが、シモオフとクリモフとの考案に基くグレミフラフスキイの舞台装飾は、決して無条件に感心すべきものではなかつた。
○若し、僕に露西亜語がわかつたら――さうだ、わかつたら――もつと、あらが見えたに違ひない。
もつと、もつといゝところがわかつたらう――と云はれてもしかたがないが……。
○たまたま、日本の――と断わることを許して下さい。話がごつちやになりさうだから――日本の新劇協会が、帝国ホテル演芸場と云ふ仮劇場で、『桜の園』を上演した。
○僕は誰からも
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