ラな西洋人」がゐる。ましてそれがいはゆる「当世風」であることも必要ではないと思ふ。なぜなら、昔、日本がまだ西洋と交通をしない前に、今日から見て「ハイカラ」な男や女がゐた。
 近頃は、「当世風」といふ言葉の代りに「新時代」、「現代式」の代りに「近代的」とか「モダアン」とかいふ言葉が使はれてゐるが、これも「ハイカラ」といふ言葉を定義するには役立たないと思ふ。なぜなら、「新しい」といふことは、「ハイカラ」の主要な点ではないのである。なぜなら、あるコンミユニストよりハイカラなインペリアリストがゐるから。また、その辺のいはゆる「モダアン・ボオイ」や「モダアン・ガアル」たちよりハイカラな、一見「普通」の青年男女がまだいくらもゐるから。私はここでこの言葉の言語学的穿鑿を企ててゐるのではない。いろいろに使はれてゐる意味をいちいち列挙する暇はないが、少くとも、「ハイカラ」といふ言葉に、気障の意を含めて、すぐに反感を抱く連中を除いては、私の今云はうとすることはわかつてもらへるだらうと思ふ。便宜上、「蛮カラ」といふ言葉をもつて来よう。この言葉は、たしかに、「ハイカラ」の正反対を指すものである。よい意味にも、
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