加した時代的特色が、寧ろ一種の『気障つぽさ』であるところから、かういふ事情に通じない見物は『シラノ』の一言一行に反感をもたないものでもない。
さうなると、この戯曲は助からないことになる。無論、喜劇であるから、その辺の誇張もあり、その誇張から生じる効果は、作者の才気をうかゞふに足るものであることを知らなければならぬ。日本の旧劇俳優が、フランス風の機智をどこまで生かし得るか、これが恐らく、こんどの上演で一番興味のある問題であらう。この脚本は俳優コクランの為めに書卸ろされたものであるが、コクランといふ俳優は柄からいへばむしろ下世話風な、あるひは三枚目式な特色をもつてゐたので、ロスタンも、そこを考へて、『顔の不味い』主人公を選んだのだらうと思はれる。
ところが、左団次は多くの点でコクランと対照的に特色をもつた俳優といひ得るので、容貌はメイキヤツプで思ひ通りになるとしても、演技の方では、左団次独特の『シラノ』が出来上るわけである。これは無論差支へない。また、しかたがない。かへつて、これが為めにフランス人好みの『シラノ』から遠ざかり、日本人好みの『シラノ』が出来上ることになれば、もつけの幸ひで
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