一家は左門町に引越した。向ひ側にMといふ同級生がゐて、そのお父さんが画家だつた。それは日本画の方に相違ない。襖だと思つてゐたのは、今考へると屏風で、草の葉の間を蛍が飛んでゐる画を描いてゐた。先づ小さな丸い紙片を処々に貼つて、その上を一面に薄墨で塗り、あとで紙片を剥がすと、蛍の尻ができてゐる。それから、月を描く時、茶碗をふせて、そのまわりにやはり、墨を塗りつけた。「ずるいなあ」と思つた。

     痴情沙汰

 風呂場が騒々しかつた。朝である。
 母の後ろからなかをのぞくと、女中のよし[#「よし」に傍点]が、壁にもたれて泣いてゐる。馬丁のオカドが右手に木鋏を持つて、そのそばに立つてゐる。よしの髪の毛が半分、オカドの左の手から垂れてゐた。

     学問

 僕は尋常小学で何を習つたか覚えてゐない。読方は、ハタ、タコ、コマ、カマといふ文句だけしか習はないやうな気がするし、習字は、小野道風の表紙がついた習字帖のことだけしか記憶にない。そして、先生は「三ツ口」といふ綽名だけが頭に残つてゐる。
 そのくせ、穢い女の子と並ばされたうら[#「うら」に傍点]悲しい気持だけが、馬鹿にはつきり浮んで来
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