そこから発見し得るものは、自分の「抽斗にない言葉」であり、かくの如き言葉の発見こそ、舞台に新しい生彩を与へるものである。
 俳優にとつて、最も不幸なことは、自分の抽斗を豊富にしようと心がけないことである。但し、これは、他の芸術家一般に当てはまることであるが、この怠慢は、当然、ある台詞にぶつかつた場合、自分の「抽斗にある言葉」だけで間に合はせようとし、概ね、似て非なる結果が生ずるのである。
 先日、帝劇の夜の部の舞台を通じて、柳永二郎と大矢市次郎とが、それぞれ、一句づつ、名「せりふ」を聴かしてくれた。
 柳――「挑みやせん」(昨今横浜異聞)
 大矢――「うむ、さうか……」(第七天国第一幕)
 なるほど、何れも「新派の抽斗」にあるものには相違ないが、これほど適切に用ゐられるなら、これは、立派な現代劇の「せりふ」である。
 序だから云ふが、水谷八重子は、新劇と新派劇の二た道から、巧みに「せりふ」のこつを会得し、今や、その領域に於て、当代随一の「せりふ」俳優たる資格を備へて来た。なほ一歩進んで、純粋の心理劇をこなし得るためには、泰西の名優に学ぶ機会があつたらこれ以上のことはないと思ふ。殊に、
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