そのもののなかに於いても、屡々指摘し得るのであるが、俳優は、どんな「せりふ」にでも、その肉声化によつて、一脈の清新な生命感を吹き込み得なくてはならぬ。
 リュシヤン・ギトリイといふ俳優は、一語一語を発する毎に、見物をして異常な身顫ひを感ぜしめたが、それは決して、所謂「感動に満ちた言葉」を、力いつぱいに叫んでゐるのではない。レジャンヌ夫人も亦、月並な会話の受け応へで、ただそれだけで観客を恍惚とさせる秘訣を心得てゐた。露西亜人のピトエフ夫人は、仏蘭西語で芝居をするのだが、発音やアクセントには、幾分怪しげなところがあるに拘はらず、言葉の心理的ニュアンスを捉へる点になると、正に名優の本領を発揮したものである。
 日本の現代語は非常に乱れてをり、標準とすべき「話される言葉」が、殆どないと云つていいのであるが、それだけまた、俳優としての想像力が生かされて来るわけである。
 現代の俳優は、刻々変遷する日常の口語体に、絶えず注意を払ふのみならず、漢文脈より欧文脈に推移する文学的表現に親しみ、あらゆる職業、教養、年配、性格を通して各種の人物に接触し、その「話し方」を微細にノオトする必要があるのである。

前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング