「詩歌の午後」について
岸田國士
私が詩歌の朗読について考へはじめたのは、ずゐぶん久しい前からである。
日本人は詩歌を愛する国民として、他の如何なる国民にも劣らないのに、その詩歌の精神が、近頃どういふものか、われわれの日常生活から、われわれの協同の仕事から、そしてわれわれの公の行動から、消え失せようとしてゐる。万葉の昔から詩歌こそ、日本人の心と心とをつなぎ、情熱をあふり、勇気をかりたて、現実に夢を、声なきものにいのちを、与へて来たのである。
事変以来、戦線に銃後に、歌よむ人の数は目立つてふえてゐるし、なかには秀作も少くないけれども、それさへまだ、国民全体に十分親しまれてゐない。歌は歌よむ人のために作られ、印刷せられ、発表されてゐるに過ぎぬからである。
明治以来の詩についてもおなじことが云へる。新体詩と云へば西欧の詩の系統を引いたもののやうに思はれてゐるが、実はそれは時代の風潮がさう思はせただけで、多くの名作と称せられるものはひとしく日本人の心がうたはれてゐないものはなく、今なほ、われわれの魂を強く打つ力をもつてゐるのに、それらは一部人士の趣味を満たすにすぎない有様である。
私はこれらの民族的詩歌が一層広く民衆の間に伝はり、勤労の余暇に、集会の場に、或は独居のつれづれに口吟まれるといふ風になれば、詩歌の精神はおのづから生活のすみずみに流れて、国民のひとりひとりが、みづからのおほらかな詩を、歌を、生むに至るであらうと思ふ。さうなつてこそ、われわれの祖先が嘗てさうであつた如く、事、公なると私なるとを問はず、われわれも亦純愛と献身によつて一切の行動を律するやうになるのだと、私は信じたい。
国民士気の昂揚は今や、政治的にも喫緊事とされてゐるが、百千の名士の愛国的訓話は、一回の「地理の書」の朗読に如かぬことは云ふまでもなく、靖国の英霊を迎ふるわれら国民の至情に対し、如何なる高官の弔辞も、数行の「おんたまを故山に迎ふ」る詩片より荘厳にして感動的な印象を与へ得ないのである。
これまで詩歌に親しむことの薄かつた人々のために、先づ私たちは、詩歌を親しみ易いものにしたいと思ふ。朗読法の研究とその効果的な公表を「詩歌の午後」といふ題目の下に企てた理由はそこにある。
詩を詩として味ふために、他の芸術の助けをかりるといふことは、今や許されていゝことである。他の芸術も亦、詩の精
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