駄弁を弄する市井の善男善女は、正にこの「技術」の憫むべき犠牲である。
話術とは読んで字の如く、「話をする術」である、聴手を感動させ、興がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでゐるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たず、また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しないのである。
殊に、話術の「鍵」ともいふべき「聴手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴手が多い時、少い時、殊に一人きりの時、その聴手の種類、その状態、聴手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。
しかしながら、前にも述べた如く、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つやうな時、その効果の大部を失ふものであることを知らねばならぬ。
甲の場合に成功した話術も、乙の場合には成功するとは限らない。これは、既に、話術の話術としての遊離を示すもので、さういふ話術は、「職業的話術家」に委せておけばよい。
われわれの日常
前へ
次へ
全44ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング