しろ、当然だと云はなければならぬ。

     二 話術以上の話術

 話術といふものがある。雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものと云へよう。何れにしても、所謂「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬ所に、意識的な努力と効果とを計算に入れてゐる。
 この話術なるものが、「語られる言葉」の美をどれほど豊富にしてゐるか、それを今こゝで問題にする前に、ひと通り、断つておきたいことがある。それは、この種の「技術」は、単に技術としては、極めて微々たる役割をしか、われわれの生活の中に於いて演じてゐないといふことである。殊に、この技術を以て職業とするものの中には、その技術以外のものによつて、われわれを顰蹙せしめる手合があまりにも多いといふことである。
 もちろん、古今の文学的作品中、その芸術的価値の一半を、この話術に負うてゐるものもあるし、教養ある人々の高い趣味に裏づけられた話術の妙は、屡々われわれを恍惚境に導くには相違ないが、これらは、何れも、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能の、ひそかに許された特権であつて、かの「話上手」を鼻にかけて、得々と
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