の容易な日本語の発音さへ、完全にできぬ日本人が随分多く、その上、例の訛りがついて廻つて、往々「語られる言葉」の魅力を殺ぐのである。尤も、この訛りのために、却つて愛嬌を増す場合もないではないが、それは、決して知的な意味での言葉の魅力でなく、多少とも偶然であり、標準とするに足らぬ魅力である。
 女の人の関西訛りは、なかなか言葉としての陰翳に富み、いはば洗練された訛りであるが、さういふ訛りは、ちよつと例外である。
 誰でも自分の国の発音や訛りを気にするとは限るまいし、それからまた、同国の人にとつては、それが寧ろ、言葉としての大切な魅力になるのであらうが、さうなると話は別である。私も、嘗て東北地方を旅行して所謂「ズウズウ弁」のそれほど聞きづらいものでないことを知つたが、それは、実際、ああいふ言葉、ああいふ発音、ああいふ訛りを、東北の風土と生活の中では最もふさはしく感じ得るからであつて、東京のやうな場所で、これを聞くと、その「語られてゐること」が、東北の「土」と関係がなければないほど、いかにも不似合な、又は、唐突な感じを受けるのである。
 発音そのものは、たとへ、正しいとか、美しいとかいふ批判を
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