がその言葉を肉声化する場合を考慮し、「語られる言葉」の美を十分発揮し得るやうに組立てられた言葉である。劇作家のこの用意は、俳優として当然これを尊重しなければならぬが、それがため、俳優の職能を軽視するものがあれば、それは大なる誤りである。
度々用ひられる常識的な比喩であるが、演劇に於ける戯曲は、音楽に於ける楽譜であり、俳優は、演奏家である。劇作家はいはば「語られる言葉」の楽譜を提供する作曲家にすぎず、これを舞台の上で、聴衆の耳を通して実際に「語られる言葉」の世界に移すのは、「声」といふ楽器をもつた俳優である。
ここで俳優の演技論は差控へるが、以上数章に亘つて述べた問題は、要するに、俳優の白――即ち、戯曲中の人物によつて「語られる言葉」が、いかに俳優によつて肉声化さるべきかを考へる基礎条件である。然るに、俳優は、自己の精神的肉体的素質の総てを「材料」として、作者の空想を実在化し、これを観客の「眼」と「耳」とに愬へて、最も有効にリズミカルな舞台上の生命を醸し出す一個の芸術家なのであるから、劇的作品中の一人物に扮するといふことは、その人物らしき肉体的条件を準備すると共に、その人物らしき精神的条件をさへ何等かの方法によつて充たさなければならぬ。もちろん、作品の構成はその内容と共に人物の「行為《アクシヨン》」を規定し、その「行為」によつて、ある程度まで人物の精神的条件は表示されるのであるが、その「行為」に伴ふ、或はその「行為」を導くものは、その人物によつて、「語られる言葉」以外のものではない。そこで、その人物に扮する俳優によつて「語られる言葉」は、あらゆる意味に於いて、厳正な批判を受けなければならぬのである。
第一に、果して、その人物らしく語られたかといふことが問題になる。
第二に、白として、「語られる言葉」の美を遺憾なく発揮したかといふこと。
第三に、戯曲全体を通じて、舞台的生命のリズミカルな発展に十分の効果を齎したかといふこと。
この三つの問題は、常に分離することは不可能であるが、作者は必ずしも人物それ自身をして、所謂魅力ある言葉を語らせようとはしないのである。さういふ場合にも、俳優が、その人物の言葉をいかにその人物らしく語るかによつて、新たに白としての「味」を生じるのである。これが「語られる言葉」の美である。
作者が意識的に人物それ自身をして魅力ある言葉を
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