は不用」なのだから、密閉された場所とか、真暗な処で起つてゐる事件がラヂオ・ドラマ向きの場面であるなどと考へるのは、単純な考へ方であると思ふ。人間は密閉された場所や真暗な処で起つてゐる事件ほど、「眼で見たい」のである。これくらゐ「もどかしい」ものはないのである。しかも、さういふ場面は、実際の舞台で幕をおろしたまま、或は、舞台を真暗にして演じれば、それでいいのである。ほんたうなら、さういふところは小説に書く方がよろしい。
ラヂオ・ドラマは、寧ろ、実際の舞台では現はし得ない場面を選ぶか、限られた舞台では想像の範囲を狭められるやうな情景を求めるのが自然であり、得策である。
ラヂオ・ドラマの一形式として、私は、前に述べた「映画物語」風のものを想像してゐる。あれをあの形式で、創作にすればよい。日本の新しい戯曲の誕生が、これによつて告げ知らされるといふことにでもなれば、欧羅巴に於ける悲劇の発生にこれを結びつけることもできるではないか。
私は嘗て巴里で、名女優ララ夫人が、たまたまそのサロンに集つた十数人の友に、ラムのシェイクスピヤ物語中、ハムレットの一齣を朗読して聴かせたことを覚えてゐる。私は少し疲れてゐたせいか、眼をつぶつて耳を澄ましてゐた。これは天下一品のラヂオ・ドラマであつた。否、ラヂオ・ドラマであるばかりではない。それまで観たいかなる名戯曲の名演出よりも、戯曲的感銘に於いて劣つてゐるものではなかつた。私はこの時、演劇の本質が、美しき言葉の美しき肉声化に在りと断言してもいいやうな気がしたのである。尤も、その後で、陶然と半眼を開いて、上気したララ夫人の顔を打ち眺めるに及んで、これはまた、声だけで満足する法はないと思つたのも事実である。
それはさうと、ラヂオ・ドラマも、機械を通るといふ致命的な弱点を、いかに処理するか。人間の声が半人半電の声となるわけであるから、どんな美しい声でも、どんなに魅力のある「話し方」でも、電化されると、大半効果を失ふことになる。これが解決されなければラヂオ・ドラマも遂に先が見えてゐると云はねばならぬだらう。
俳優の白《せりふ》は、いふまでもなく「語られるために書かれた言葉」の肉声化であつて、俳優は、劇作家の創造した人物に扮して、その人物が語る言葉を語るのである。劇作家は、その作品中の人物をして、最も戯曲的な言葉を語らせねばならぬ。それは、俳優
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