なる。或は、「駄目ぢやないか、濡れた傘をこんなところへ置いちや……」かう「語らせる」ことも有効であらう。もちろん、かうでなければならぬといふ型がある筈はないが、ラヂオ・ドラマの一要素はたしかに、「耳から眼へ」伝へられるイメエジの効果に外ならぬ。
 演劇のうちでも、古典劇に多く見るかのチラアドなるものは、この効果を十分に活かしてゐるやうに思はれる。例へば、ラシイヌの如きは、その悲劇の悉くに於いて、血腥い場面を決して舞台に現はさず、必ず、一人物をして幕間に起つた事件の名描写を行はしめてゐる。恐らく、実際の「立廻り」を見せるよりも、芸術的感銘は深いに違ひない。
 私は、元来、演劇の「眼に訴へる効果」なるものを、人物の表情以外、さほど重大なものと考へてゐないのである。まして舞台上の機械的装置は、往々、観客の想像力を殺ぎ、芸術的効果を傷ひ、いはば幻滅に近い印象を与へるものであることを屡々経験してゐる。人物の動作にしてもさうである。その動作が激しければ激しいほど、俳優は自己をマスタアすることができず、或は舞台そのものの構造と調和せず、観客に一種の焦慮を与へ、時としては面をそむけさせるに至るのである。例へば、舞台上で走つたり、倒れたりする動作などは、いかに熟練した俳優でも、デリケェトな観客を苦笑せしめずには措かないのである。
 この点、ラヂオ・ドラマは、大変助かるには違ひない。しかし、悲しいかな、聴取者の想像力には限りがある。見物の想像を許さぬ俳優の魅力ある表情姿態は、これをラヂオ・ドラマに求めることができない。それにしても、不必要に見物の想像力を疲れさすことは慎しんだ方がよろしい。あの音はなんの音だらうか。あの叫び声は誰の叫び声だらうか。眼のない聴手が、かう自問自答する努力は、やがて、神経の濫費となつて、作品全体の鑑賞を妨げ、遂には、アンテナを外せといふことになるかもしれぬ。
「耳から眼へ」伝ふべきものと、「耳から心へ」直接に愬ふべきものとを、区別吟味しなければならぬわけである。不正確な物音や、誰のともわからぬ叫び声の如きは、徒らに「耳から眼へ」の神経を疲労させるばかりで、「心に」愬へる何ものも残さぬ結果に陥る場合が多い。「見ようとしても見えぬもどかしさ」を与へてはならぬ。「おのづから見えて来る面白さ」が、ラヂオ・ドラマの一つの新しい天地であると思ふ。
 この意味で、どうせ「眼
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