衆はそこに何等の新しい発見を期待することなく、たゞ漫然と聴き、漫然と笑ひ、そして、漫然と時を過してゐるのである。「語られる言葉」の美は、時に、名人と呼ばれる話術家の舌端から、最も力強い真実の響をもつて生れ出ることもあるが、その真実にさへ、われわれはもう新鮮な生命を感じることができなくなつた。何となれば、そこで語られる言葉は、われわれの言葉ではないからである。所詮、現代の寄席は旧い言葉を語る民衆と共に、いつかは滅び行く運命をもつてゐるのだらう。
 今日の民衆は、かくて、「彼等によつて語られる言葉」の魅力を、最も皮肉なことには、かの映画館の中に求めつゝあるのである。
 映画説明者は、事実、「漫談」なる現代的寄席芸術の一様式を案出したのであるが、これがどこまで発達するか、今のところ疑問である。
 最近、ラヂオで「映画物語」といふ変なものが放送されるが、私は、いつか、偶然それを聴いて、こいつは何かになると思つた。

 ラヂオ・ドラマといふ形式についても、いろいろ考へたのだが、結局、擬音といふやうな機械的な効果はそれほど問題ではなく、「語られる言葉」のあらゆる効果と、その効果による聴取者の想像力が、将来のラヂオ・ドラマを決定するのだと思つてゐる。
 この種の想像力は、ある程度まで舞台演劇の鑑賞にも必要であつて、能や歌舞伎劇の多くは、就中、その著しい例であるが、ラヂオ・ドラマは、特に、この想像力を極度に利用すべき表現形式を取らねばならぬ。
 雨が降つてゐる。――舞台でなら、本雨を降らすこともできるし、雨の音と、人物の動作や表情で、直接、これを見物に伝へることができるのであるが、ラヂオでは、やはり、人物をして、雨が降つてゐることを「語らせ」なければならぬ。さうすれば、雨の音は第二である。その語らせ方が、第一に問題になる。
 雨が降つてゐる。――雨脚が光る。庇にあたる雨の音。人が空を見上げる。硝子戸をしめる。外から帰つて来たものが、傘の水をふり払ふ。かういふ情景や、動作は、なるほど演劇の重要な一要素ではあるが、ラヂオでは全く効果がないか、或は甚だしく稀薄である。
 雨が降つてゐる。――「雨が降つてる」と「語らせる」のも一法であらうが、これでは、聴取者の想像力を奪ふことになつて面白くない。「どうしたといふんだらう、この天気は……」とでも「語らせ」れば、まだ幾分想像力を満足させることに
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