葉」の一要素として、最も不適当な条件を備へてゐるのであるが、これまた、さほど悲観するにも当らないのである。なぜなら、表情も亦、かの「声」に於ける如く、その魅力は、必ずしも「言葉」と遊離して批判さるものではなく、殊に、所謂「表情の巧さ」は、決して、「精神的美しさ」を表示する最後の方法ではないからである。
「語られる言葉」の魅力は、かくて、これまた、「声」の場合に於ける如く、最も複雑な関係に於いて、「表情」のある種の魅力と結びつくのである。

 俳優の表情は、それだけで独立した演技の一要素であるから、こゝで取り立てては述べぬが、日本の俳優は、一般に、白《せりふ》と科《しぐさ》の一致、乃至、白を云ひながら、その表象をするといふ研究が、非常に幼稚である。可なり研究が出来てゐる人でも、概して、その結果が類型に陥つてゐる。

     七「語られる言葉」の芸術

 われわれの日常生活は誠に殺風景なもので、「語られる言葉」の多くは、月並な、生彩に乏しい、たゞ単に「用事を足す」だけの言葉である。たまたま、面白い言葉を耳にはさんでも、それは、一分間とは続かないのである。これは、現代の日本のやうな国では已むを得ないことであらう。しかしながら、この「最も快き瞬間」に、少しでも度々出会ふことを望むのが、生活を愉しみ、文化を愛する人々の常である。
 この点で、幾分恵まれてゐるとさへ思はれる西洋人でも、日常生活の中だけでは満足してゐない。
 それなら、どこにそれを求めるか。「語られる言葉」の美が、最も輝やかしい魅力となつてわれわれを包む世界がたゞ一つあるのである。
 それは、いふまでもなく、劇場である。
 劇場は固より、その他の要素からも成つてゐる。しかしながら、「語られる言葉」の美だけは、劇以外に於いてこれを完全に、十分に味ふことはできない、といふ一事を、私は人類のために悲しみ、また、俳優のために誇りたく思ふのである。
 寄席の落語や講釈は、なるほど、「語られる言葉」の一芸術であり、これに心酔する人々に云はせると、これほど「面白い」ものはないのであるが、私の見るところでは、落語や講釈からわれわれが求め得るものは、特定の階級に迎合する話術以外のものではないのである。その話術は、なるほど、一つの確乎たる様式を生むまでに洗練されてはゐるが、その様式は殆ど「高座のマンネリズム」とも称すべきもので、民
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