も困つたことは、対手を退屈させ、一座を白けさせ、人前で調子を外す妙を心得てゐることである。
現代の日本語が、実に蕪雑を極めてゐることは、識者の等しく認めるところであるが、その識者自らが、その蕪雑さを如何にして救ひ、少しづつでも国語の品位と魅力とを恢復しなければならないかについて、十分の用意と努力とを払つてゐないやうに思はれる。尤もこの問題は、所謂識者だけに委しておくべき問題ではない。今朝も不図、読売新聞を開いて見ると、巴里にゐる中村星湖氏が、その通信の中で次のやうなことを語つてゐる。
『フランスの国民くらゐ国語を大切に取扱ふ国民はない。殊にフランス女、といふ中でも、生粋のパリの女くらゐ、フランス語の発音の綺麗なのを得意とするものはないやうです。コメディイ・フランセエズの女優達が劇場に出かける前でも、そこから帰つて来てからでも、暇さへあればフランス語の発音の練習に夢中になつてゐるといふ事ですが、これは綺麗な声を生命とする職業だからと言つてしまへばそれまでだが、さういふ特殊の職業婦人でなくても、よく話す事、よい発音をひとに聞かせる事は、フランス女、殊にパリ女の誰でもが、一般的に、もしくは歴史的に、心掛けて来た、また心掛けつゝあるところのやうです。「古きラテン文化」――それはフランス文化人、及びフランス女が最上の誇りとする、それは、こんな日常の用意から来てゐると言つてよいかと思ふ。
日本の女の人でも花柳界などには、よほどこの声の練習があり、たしなみがあるらしいが、動機も目的も全く違ふ。普通の社会だと、日本語を綺麗にしかも明瞭、的確に話さうとする人があるかないか? 言葉を愛し、言葉を惜しみつゝ、対者によき感じ(殆ど芸術的な感じ)を与へ、また十分の理解を得させようとして、言葉の発音や調子や組立てにまで始終気をつけてゐる日本の女は、割合にすくないのではあるまいか? 紅や白粉で面上を糊塗する事は知つてゐても、腹の底から、魂の奥から発して来る言葉を磨く事を忘れては駄目だ。日本語がいつでも乱雑に流れ、標準を失ひつゝあるのは、国語の整理と統一とに始終周到の注意を払つてゐるフランス学士院のやうなものが日本にないからではなく、国民一般が、殊にいろんな関係から、言葉を重んじなければならない日本の女達が、それをあまりに出鱈目に、無自覚的に、話すといふよりは寧ろ発散しつゝあるからだらう。これ
前へ
次へ
全22ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング