」に求むべきことはむろんであるが、われわれ日本人は、前に述べた如く「語り手」として、多くはその点、甚だ幼稚である以上に、「聴き手」として、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分に関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるといふ訓練に至つては、最も欠けてゐると云はねばならぬ。この事実こそ、わが国の現代劇を不振ならしめてゐる最大の原因なのである――作者の側からも、俳優の側からも、将たまた、観客の側からも。
 試みにさつきの例を挙げて見よう。こゝに一人の若い母親がゐる。子供に乳をふくませながら、かう云つてゐる。――
「さ、早く、おつぱいを飲んで、ねんねして頂戴。そいでないと、母ちやんは、……どうするか知つてて……?」
 さて、こんなつまらない独白めいた言葉から、実際、われわれが、何か魅力らしいものを感じたとしたら、どうだらう。その母親が美しい女性だからだと云ふものがあれば、私は、そればかりではないと答へる。若い母親としての優しさが、言葉の調子に表はれてゐるからだと云ふものがあれば、私はそれだけでもないと答へる。それなら、その言葉つきが極めて自然で、厭味がないからだと云ふのか。いや、そればかりでもない。声が朗らかで、歌のやうだからか。いや、いや、そればかりでもない。それならなんだ。私はかう答へるより外はない。――「さういふことがらをみんな含めた上で、なほ、その外に、その女は自分の言葉をもつてをり、そして、その言葉を自由に使つてゐるからだ。言ひ換へれば、いかにもその女に応しい言葉で、その女でなければ表せないやうなものを、最も適切な時機に、最もはつきり現はしてゐるからだ」。
「語られる言葉」の美は、かくて、立派に文学的批判を受くべきものとなるのであるが、しかも、それは、「書かれた言葉」の美以上に、デリケェトで且つ複雑な効果をもつてゐるのである。何となれば、それは一層、人間そのものの生命に近いからである。
 それにつけても、私は、日本人を不思議な国民だと思ふ。なるほど、無表情といふことも、時によると、一つの魅力ではあるが、自分の思想感情を常に歪めながら発表することを、さほど苦痛と感じないらしいのである。以心伝心とか、暗黙の裡に語るとかいふ甚だ神秘的な趣味を解する如く見えて、実は、誤解と泣寝入と気まづさとを生涯背負つて歩いてゐるのである。そして、最
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