」「生ひ立ち」は「言葉」の上にも争へない特色を残す。上流、中流、下層といふ風な階級的な分け方だけでなく、いろいろ複雑な影響をそこにみることができる。
 家庭の構成分子によつても著しい違ひがある。例へば老人がゐるのとゐないのと、同胞の数、性別なども同様に関係がないと云へない。
 公卿、小間使、重役、自由労働者、下士官、居候、舅、末つ子、伯母、親友、先生の奥さん……一寸かう並べて見ても、そこに、それらしい言葉使ひがありさうに思はれる。これは、想像して見るだけでも面白いではないか。
 国と時代、これも少し問題が大きい。しかし、こゝでは、やはり一例を挙げるに止めよう。
 早く云へば、国とは、その人物の生れ、育つた国である。広くしては、国家民族と結びつき、狭くしては、一国内の地方を指すのである。
 例へば仏蘭人には、「仏蘭西人の話し方」があり、独逸人には、「独逸人の話し方」がある。国語の別はもちろん根本的な問題だが、それぞれの国語の特質を通して、所謂「語られる言葉」の表情そのものに相違が生じるのである。これは、国語の性格に、文化の伝統、国民性の特質が作用するからである。
 日本国内でも、東北、関東、関西、中国、九州、みなそれぞれの言葉をもつてゐる。そして、それは、みなそれぞれの地方を特色づける文化、風土並に気質に根ざす言葉である。
 時代については、「現代」以外にわれわれの「耳」は、その働きを延長し得ないのが残念であるが、その現代にしても、既に、幾つかの「時代」を劃してゐると云へるのである。おやぢの時代、息子の時代、孫の時代等があり、おやぢは、息子との年齢の相違による「言葉」の違ひ以外に、時代の相違による「言葉」の「旧さ」を有つてゐる。おやぢの遣ふ言葉は、単に老人の言葉ではなくして、実に前時代の言葉なのである。即ちこの種の人物は、その「語る言葉」を通して、一つの特色ある「時代」を映してゐると云へるのである。それがまた、場合によつては、意外にもわれわれの興味を惹くに足るのである。
 その他、健康な人の言葉は、病弱な人の言葉とどこかで背中合せをし、酔払ひは酔払ひの言葉しか語らず、革命家は革命家らしく物を言ふ。
 そして、最後に、当面の「事実」と、これに対するその人物の「心理」が、「語られる言葉」の内容と表現の根本を決定するのである。

     四 声のいろいろ

「語られる言葉
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