ひない。併し、私の場合のやうに、現在の日本の新劇といふものに、どうもぴつたりしない傾向の作者には、なまじひに口を出したり、関係したりしない方がいゝやうに思ふ。
 話は少し横道であるけれども、元来私の見て来たフランスでは、舞台監督は大体において、一座の主な役者の一人である場合が多い。さういふ舞台監督は舞台の実際上のことに経験もあれば、役者の一人々々について、手を取つて教へることも出来るわけである。
 これが独逸流に行くと、舞台監督は学者とか理論家とか云ふ人達が主なので、自分が俳優としての経験を全然持たないのだから、実際に具体的に指導することは殆んどない。さういふのは俳優の自由な才能を尊重する意味では甚だ当を得たやり方で、無理に一種の型を強ひると云ふやうな事は決してない。けれどもそれと同時に、幾分俳優を人形視するといふ観念の方が先に立つことが往々ある。
 日本などは早くから独逸流の仕方を採用した結果、主に新劇について云へば、舞台装置とか、舞台監督とか、照明などつまり、趣向といふ方面では相当に新らしい充実したものを見ることが出来るけれども、それに比較して俳優の個人々々の芸が少しも進歩してゐな
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