者の均しく考慮すべき問題であると思ふ。「巴里の女性」然り、「ステラ・ダラス」然り、「殴られる彼奴」然り。何れも、不必要[#「不必要」に傍点]に「文学」を軽蔑してゐる。「詩」を傷けてゐる。それが為めに、映画として、どれだけ「よりよく」なつてゐるか、それが聞きたいものである。
今度、衣笠貞之助君の監督で、川端康成君作の「狂つた一頁」といふ映画が出来た。これは、一見筋らしい「筋」はないやうに見える。あつても、それは珍らしいとか、面白いとか、いふやうな筋ではない。しかし、あの筋をあゝ取扱ふところに「文学的価値」がある。「不必要なものを加へない」といふことは素晴らしい「文学的手腕」である。
結局、映画の芸術的価値は、今の処、かなり脚本の文学的生命に左右されてゐる――演劇に於ける戯曲ほど根本的ではないが――と云へよう。文学を無視するのはよろしい。下らない文学に縛られないやうにしたいものである。下らない文学に縛られない為めには、優れた文学的要素を選べばいゝ。強いて、それを避けるには当らないのである。それほど文学を怖わがる必要はない。どうも、映画専門家のうちには、文学を眼の敵にしてゐる人があるらし
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