う。政治家としての見識や、天才があるなしの問題ではなく、これはまつたく、総理大臣並びにこれを取巻く一部官僚の教養の質に関する問題で、現代日本ならでは見られない図である。かうなると、今日の常識といふものについて、われわれは大きな疑ひを抱かないわけに行かなくなる。
もう一つ例をあげる。日本人は由来芸術を愛する国民だと西洋人の大多数は考へてゐるらしい。そのわけをきくと、日本人は殆ど誰でも「詩」を作る、「造庭術」を心得てゐる。老人でも「声楽」を勉強してゐるものが多い等々とその証拠を数へあげる。「詩」といふのは「俳句」のこと、「造庭術」は庭いぢりや盆栽のこと、「声楽」とは謡曲と義太夫である。なるほど、さうかも知れない。ところでこれらの芸術家は、最もアマチユアリズムの妙味を解しない手合であり常に何人かの軽蔑を買ひ、何人かを悩まし、何人かに甘やかされ利用されてゐるのである。つまり、何等かの意味で「生活」を孤立させてゐるのである。
われわれが、自分の生活の領域のなかに、絶えず、「和洋」の趣味を対立させ、その相容れない部分について、めいめいが感覚を焦ら立たせてゐる状態は、誠に惨憺たるものがある。いつたいこれはどうしたらいゝのか? この摩擦作用は、長い眼で見てゐればたしかに面白い現象に違ひないのであるが現代に生きてゐるわれわれは、その摩擦の不快な軋音に耳を塞ぐ術さへ知らないのである。
洋服を着た東洋豪傑がレコードの浪花節を聞いてゐれば世話はないやうなものゝ、この風俗が何時までも続くのかと思ふと、日本の前途が案じられる。和服でダンスをやる芸者がお酌をしながら「アイ・ラヴ・ユウ」なんてやるもんだから、こないだ日本へやつて来たコクトオといふフランスの詩人が顔をしかめたのである。なにがどう悪いとは云へない。なにがどうなつてゐるのかわからんところが勘に障るのである。
西洋と日本とを混ぜ合はす場合には、両方の悪いところばかりが目立つせいもあらう。大体に「文化何々」と称するものがインチキ性を帯びてゐるやうに、近頃のインテリ階級ぐらゐ当てにならぬものはない。といふのは、なまじつか西洋をかぢり、そのくせ伝来の封建性から脱けきらず、都合次第で「西洋」と「日本」を使ひ分けようとするから「意識的西洋」は歯の浮くやうなものになり、「無意識的日本」は、野暮そのものになり、次の時代は滔々としてこれに倣ふので
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