何れも「文化」に対する一面的な観察を土台とするからで、現代日本の姿といふものを、風俗的に観察すれば、悲観も楽観もしてゐられないのである。
 行くところへ行くといふ自然法的な解決も考へられないことはない。混乱は統一への段階であると云へば云へるのであるが、それには、何処かに指導的な力が働かなければならぬ筈である。見渡すところ、そんなものは何処にもない。
 少くとも、民衆は、偽瞞と矛盾のなかに、生活の方向を失はうとしてゐるのである。青年の無気力が云々され、インテリ階級の頽廃が論ぜられるといふのは、結局「日本はどうなるか」といふことの不安に原因があるばかりではない。さういふなかで「正しく生きる」道を指し示す「文化的標識」を見失つてゐるからである。
「正しく生きる」と云へば、非常にむつかしい議論になるが、要するに、分に応じて自己の仕事を選び、社会の一員として悔いのない生活を送ることである。生半可な政治知識で天下国家を論じる必要はないし、実行力なくして結社に投じてみてもはじまらぬ。たゞ、民衆としての要求は、それぞれの機会に与へられた公民権の行使によつて反映させる外はない。とすれば、個々の生活のなかに残された「理想」は、必ずしも装飾としてではなく、精神的欲求としての「生活の快適さ」であらう。
 かういふことを云ふと、すぐに現代は享楽の目的物に事を欠かぬではないかと反駁して来るものがあるには違ひない。そこで僕はその享楽の目的物なるものについて若干検討を加へる必要を感じるのである。
 全くその通りである。現代の日本は、民衆が、最も「生活そのもの」を楽しんでゐない時代、従つて、享楽を「生活以外」に求めてゐる時代なのである。
 なぜかと云へば風俗の混乱が趣味の対立、教養の疎隔、言語の不通をまでもち来した結果、親子同胞隣人の間に同一物に対する共通の価値判断が行はれず、従つて、人間相互の感情に相通ずるものが少くなり、反感と軽蔑と無関心が日常の生活雰囲気を支配してゐるからである。
 極端な例をあげると、総理大臣の施政方針が発表される。これに興味をもつほどのものが、先づ第一に感じることは、それに盛られた政策の内容が何よりも、その文体の、凡そ珍妙無類なことである。ところが、これを佳しとするものがまつたくゐないわけではない。いや寧ろ、官吏や政治家のうちには、相当に膝を打つて感心したものもゐるのであら
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