大阪といふところ
長岡半太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「執/れっか」、382−3]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポンポコ/\ポンポコネ
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は仁徳天皇のころから既に開けた都會であることは申すに及ばない。聖徳太子の四天王寺や、蓮如上人の石山本願寺建立に因みて、抹香臭い氣持ちがする。しかし豐臣秀吉が爭亂を平定して、こゝに築城してから、その空氣は一新し、大阪の本質を發揮した。大阪は海灣に面して、淀川は舟楫の便あり、四通八達、物資の集散地として、屈強な地の利、水の利がある。かくの如き土地が開發されるのは、自然の勢であつて、淀川の河身改良を行ひ、そのデルタに運河を疏通すれば、工、商業はおのづから發展する。往時ヴェニスが歐亞の交通上一時覇を唱へてゐた歴史に鑑みれば、大阪は關西方面の商賈出入の關門となつてゐたことは當然である。今日その勢力圈はますます擴張して、東洋貿易の覇權を握らんとする形勢になつて來た。
ヴェニスに遊んだ人には、中世紀から傳はつたゴンドラが昔を偲ばしむる好材料である。大阪にも半世紀前には底の平なゴンドラらしい柴舟が澤山浮いてゐた。ゴンドラに比ぶれば美術的でなく、むしろ實用向きに造られた。徳川時代に伏見と天滿橋の間を往復した三十石は、その大形であつて、維新前の交通が頗る悠長であつたことを思はしむる。
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「淀川三十石、のぼりくだりの川中で、御客をとらへて、喰はんか、くらはんか、ポンポコネ、ポンポコ/\ポンポコネ」
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といふ端唄がある。予は稚ないころ伏見に往復したことがある。三十石は棹で押すか、綱で引くか、瀬の工合で共用したのである。一晩かゝつて伏見、大阪を聯絡するのだから、今日の電車や汽車が網を張つた、スピード時代には思ひもよらぬ、遲い交通機關であつた。しかしそのころから大阪魂とでもいふべきものは、喰はんか舟の呼聲に提唱された。
喰はんか舟は食料品を載せた片家根の柴舟であつた。三十石を川中で邀撃して、乘客に菓子や酒を賣付ける。
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「くらはんか、くらはんか、牛蒡汁[#「牛蒡汁」は底本
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