良友悪友
久米正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)曳《ひ》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実際|此《こ》の失恋
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)一種のはにかみ[#「はにかみ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)忘れよう/\と
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「失恋が、失恋のまゝで尾を曳《ひ》いてゐる中《うち》は、悲しくても、苦しくても、口惜《くや》しくつても、心に張りがあるからまだよかつた。が、かうして、忘れよう/\と努力して、それを忘れて了《しま》つたら、却《かへ》つてどうにも出来ない空虚が、俺《おれ》の心に出来て了つた。実際|此《こ》の失恋でもない、況《いは》んや得恋でもない、謂《い》はゞ無恋の心もちが、一番悲惨な心持なんだ。此の落寞《らくばく》たる心持が、俺には堪《たま》らなかつたんだ。そして今迄用ゐられてゐた酒も、失恋の忘却剤としては、稍々《やゝ》役立つには役立つたが、此の無恋の、此の落寞たる心もちを医《いや》すには、もう役立ちさうもなく見えて、何か変つた刺戟剤《しげきざい》を、是非必要としてゐたんだ。そこへY氏やTがやつて来て、自分をあの遊蕩《いうたう》の世界へ導いて行つた。俺はほんとに求めてゐたものを、与へられた気がした。それで今度は此方《こちら》から誘ふやうにして迄、転々として遊蕩生活に陥り込んで行つたんだ。失恋、――飲酒、――遊蕩。それは余りに教科書通りの径路ではあるが、教科書通りであればあるだけ、俺にとつても必然だつたんだ。況んや俺はそれを概念で、失恋をした上からには、是非ともさう云ふ径路を取らなければならぬやうに思つて、強《し》ひてさうした訳では決してない。自分が茲《こゝ》まで流れて来るには、あの無恋の状態の、なま/\しい体験があつての事だ。……」
私は其頃《そのころ》の出たらめな生活を、自分では常にかう弁護してゐた。そして当然起るであらう周囲の友だちの非難にも、かう云つて弁解するつもりでゐた。そしてそれでも自分の心持を汲《く》んで呉《く》れず、かうなる必然さを理解して呉れなければ、それは友だち甲斐《がひ》のないものとして、手を別つより外に術《すべ》はないと考へてゐた。併《しか》し、心の底では、誰でもが、自分の一枚看板の失恋を持ち出せば、黙つて許して呉れるだらうとの、虫のいゝ予期を持つてゐないではなかつた。そして其虫のよさを自分では卑しみ乍《なが》らも、其位の虫のよさなら、当然持つて然《しか》るべきものだと、自ら肯定しようとしてゐた。――初めは、世間の人々の嘲笑《てうせう》を慮《おもんぱか》つて、小さくなつて、自分の失恋を恥ぢ隠さうとしてゐたのが、世間の同情が、全く予期に反して、翕然《きふぜん》として、自分の一身に集つて来るらしいのを見て取ると、急に大きくなつて、失恋をひけらかしたり、誇張して享楽したり、あまつさへ売物にしたりして殆《ほと》んど厚顔無恥の限りを尽したが、世間もそれを黙つて許して呉れてゐるので、益々いゝ気になつて了ひ、いつでもそれを持出しさへすれば、許して呉れるものとの、虫のいゝ固定観念を作つて了つたのだつた。勿論《もちろん》一方ではさうした自身を、情なく思ひ乍らも。――で、自分では飽くまで今の生活を、許され得るものと、思ひ込んでゐたのだつた。周囲の友人たちも、もう許して呉れるに定《きま》つてゐるものとさへ、思ひ込んでゐたのだつた。
或《あ》る正月初めの一日だつた。私は二日ほど家をあけた後で、夕方になつてから、ぼんやり家へ帰つた。云ふ迄もなく母は不機嫌《ふきげん》だつた。さうして黙つたまゝ、留守の間に溜つてゐた書状の束を、非難に代へて私の眼の前につきつけた。私も黙つて受取つて書斎に入つた。
その後《おく》れ馳《ば》せの年始状や、色々な手紙の中に一枚、Eから来た端書が入つてゐた。私は遊び始めてから、暫《しば》らく周囲の友だちと会はなかつたので、何となく涙ぐましいやうな懐《なつか》しさを以て、その端書に誌《しる》された彼の伸びやかな字体を凝視《みつ》めた。それは×日に吾々親しいものだけが集つて新年宴会とでも云ふべき会をしたいから、君も是非出席しろと書いてあつた。×日と云へば今日だ。そして時間ももう殆んど無い。それにしても間に合つてよかつた。私は家に帰つてすぐ、又飛び出す体裁の悪さを考へたが、久しぶりで健全な友人たちと、快活な雑談を交す愉快さを思ふと、兎《と》も角《かく》も出席しようと心に決めた。而《そ》して一旦脱ぎ棄《す》てた外套《ぐわいたう》を、もう一度身につけた。
「また出掛けるのかい。」その様を見て茶の間の方から、母がかう言葉をかけた。
私は鳥渡《ちよつと》辛《つら》かつ
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