父の死
久米正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上田《うへだ》
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(例)其|下《しも》ぶくれの
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(例)間違つた[#「間違つた」は底本では「間違った」]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)する/\と
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一
私の父は私が八歳の春に死んだ。しかも自殺して死んだ。
二
その年の春は、いつもの信州に似げない暖かい早春であつた。私共の住んでゐた上田《うへだ》の町裾を洗つてゐる千曲川《ちくまがは》の河原には、小石の間から河原蓬《かはらよもぎ》がする/\と芽を出し初めて、町の空を穏《おだや》かな曲線で画《くぎ》つてゐる太郎山《たらうやま》は、もう紫に煙りかけてゐた。晴れた日が幾日《いくにち》も続いて乾《かわ》いた春であつた。雪解時《ゆきげどき》にもかゝはらず清水は減つて、上田橋《うへだばし》の袂《たもと》にある水量測定器の白く塗られた杭には、からびた冬の芥《あくた》がへばりついてゐた。ともすると浅間《あさま》の煙りが曲つてなびき、光つた風が地平を払つて、此小さい街々にあるかない春の塵をあげた。再び云ふがそれは乾いた春であつた。
其《その》一日《あるひ》、私はいつもと違つて早く遊びを切り上げて家《うち》へ帰つた。私にはどこへ行つても友達の二三はあつた。そして其友達たちの多くは定《き》まつて年上の子であつた。それは一つには私がひどくませてゐて、まだ学校へ入らぬ前から読本《とくほん》なぞも自由に読め、且《か》つ同年位の子の無智を軽蔑したがる癖があつたのと、一つには父が土地の小学の校長をしてゐた為めに、到る所で私は『校長の子』といふハンディキャップの下に、特別に仲間入りをさせて呉れる尊敬を彼等の間に贏《か》ち得たからであつた。その校長の子は今日その遊び仲間を振り切つて帰つて来た。何となしに起る儚《はか》ない気鬱《きうつ》と、下腹に感ずる鈍い疼痛《とうつう》とがやむを得ずその決心に到らしめたのである。
「腹を下すと又叱られる。」
と私は帰り乍《なが》ら小さい心の中《うち》で思つた。そして、「家へ帰つて少しの間静かにしてゐれば癒《なほ》るだらう。さうすれば誰にも知られず、又叱られもしまい。さうだ。黙つてゐよう。黙つてゐる間に癒つて了《しま》へば又厭な薬を飲まなくても済む。かうして早く帰れば腹の痛み位ゐ直ぐ癒るに定まつてゐる。戸外《そと》で底冷えのする夕方まで遊んでゐるのが、いつも病気の原因になるのだ。……」
こんな考へを永い間胸の中で上下し乍《なが》ら来る間《うち》に、いつの間にか家の前まで来てゐた。ふと気がついて顔を上げると、反対の方向から恰度《ちやうど》父が帰つて来て、門を這入《はい》る所であつた。父は振り返つて其小さい次男の白いどこか打沈《うちしづ》んだ顔色と、其何かを軽く恐れてゐる二つの眼を見た。息子も亦、広い薄あばたのある、男親の暖かさと教育家の厳かさが、妙な混合をなしてゐる父の顔をぢつと見て立つた。二人の間には漠然とした愛と、漠然とした怖れが静かに横はつてゐるのだと、息子には感ぜられた。
「辰夫、おまへお腹《なか》が痛くはないかい。」
と父は私に訊いた。私は呆然たる驚きの中に再び父の顔を見た。そして其慈愛を抑へた眼の中に、何かしら不思議な能力のあるのを見てとつたやうな気がした。何かの童話の主人公のやうに、父は私の秘《ひ》しに秘してゐる事も瞬く間に見抜いて了ふのだ。それでこれは匿《かく》しても迚《とて》も駄目だと咄嗟の間に思ひ決めて、そつと答へた。
「えゝ少し……。」
「さうか。おまへも矢張り痛むかい。実は俺も痛いのだよ。それで帰つて来たのだ。」と父は云つた。
「昨日おまへと篠原《しのはら》へ行つたらう。あの鰻がきつといけなかつたのだ。」
かう云ひ乍ら父は、叱責を予期してゐた私の手を引いて家の中へは入つて行つた。私は腹痛の原因に就いては何も考へてゐなかつた。考へてゐるにしても飽く迄自分一人の責任として思ひ悩んでゐたのみである。併《しか》し今はそれが父の言葉ですつかり解つた。そしてそれが単に自分一人の問題ぢやなくて、すべての自分の信頼の的である父が、同じ悩みを頒《わか》つてゐるのだと思ふと、急に安心したやうな横着な気が萌《きざ》して来た。それで出来るだけ自分の腹痛を誇張するのが今の場合一番得策なのだと、小さい心の中《うち》で一生懸命に思ひついた。そして出て来た母を見ると一種の努力をして、急にその手に縋《すが》りつき、泣き声で腹痛を訴へ始めた。
「まあ此子はどうしたと云ふのだえ。」と母は云つた。母はこの無邪気の涙の陰に、幼ない乍らも精一杯の政策が潜んでゐるのを気附きもしなかつたのである。
「辰夫と俺とは昨夕《ゆうべ》の篠原の鰻に中毒《あた》つたらしい。薬を飲まして寝かしてやれ。俺も寝る。」と父が答へた。
「まあ、鰻に中毒《あた》つたのですつて、あなたが独りでなんぞおいでなさる罰ですよ。辰夫。もうおまへもお父さんと二人きりで行くのはおよしよ。」
かう暖かい叱責を父子《おやこ》に加へ乍ら、母は私を連れて行つて奥の間に寝かした。太陽がまだ明るく障子をかすめてゐた。戸外《そと》には明るくて騒がしい晩《おそ》い午後が在《あ》つた。それは子供の嬉戯《きぎ》に耽る最も深い時間であつた。
私は座敷の中に一人残された。私は幾度か寝床に埋めた首をもたげて、戸外に照つてゐる日を思ひ、それと暗く陰つた座敷の奥とを見比べた。母が雨戸を二三枚引いたので、そこには昼乍らうすら寒い幽暗《いうあん》があつた。暗い襖、煤《すゝ》びた柱、黝《くす》んだ壁、それらの境界もはつきりしない処に、何だかぼんやりした大きな者が、眼を瞑つて待つてゐる。……
私はふと此儘死ぬのではないかと思つた。向うの書斎に寝てゐる父と一緒に、この明るい世界から永久に離れて、その脂色《やにいろ》の人の居る所へ、何かに導かれて行つて了ふのでは無いかと思つた。さう思ふと、暗い所にゐる眼を瞑つた人が益々自分の方へのしかゝつて来るやうに思はれた。私は思ひ切つて眼を見張つて、その暗がりをぢつと見て遣つた。初めはそこに在つた者は黒い所に薄白く見えたやうな気がした。がよく見ると黒い所に猶黒く影を作つてゐるやうにも思はれた。そして了ひには何《ど》つちだか解らなくなつた。併《しか》し何かゞ居るのだと幼い心が感じた。さうだ。何かゞ息を潜めて、すべての暗い所に俺を見張つてゐるのだ。俺の隙、俺の死を!
其時ふと細かい戦慄が足の方から込み上げて来た。
「お父さんと一緒なら怖くはない。」
さう思ひ乍ら私は健気《けなげ》にも、それを理智で抑へようとかゝつた。併《しか》し乍ら其次に起つた小さな推理は、父は大人だから此儘死なないかも知れぬと云ふ事で私を脅した。そして自分一人が取残される。さうすると其先はどうなるであらう。私は祖母なぞのよく云ふ神に祈ると云ふのはかう云ふ時なのだと思つた。そして寝床の中に身を正して、一生懸命に祈つた。どうぞ神様、死ぬならお父さんと一緒に死なして下さい。生きるなら一緒に生かして下さい。いやお父さんは死んでも私は生かして下さい。さうぢやない。私は死んでもお父さんを生かして下さい。……
かう祈り続けてゐる中《うち》に、私は何だか言葉の理路を失つて了ひ、幾度か文句を間違へたり、転倒したりして、はつと中止した。そして其次の瞬間には自分の祈りの間違つた[#「間違つた」は底本では「間違った」]処を神様が聞き入れて、父ばかりが死んで自分が生残るか、自分だけが死んで父が生き伸びはしないかと思ひ到つた。もし父ばかり死んだら自分はどうなるだらう。あの広い薄あばたのある顔、沈んだ厳かな顔色、時とするとひどく柔和な姿にかへる眼。それらが今自分の周囲から急に消えたらどうなるだらう。自分は毎朝玄関へ出て「行つていらつしやい。」を云ふ必要がなくなる。お昼には紫の風呂敷に包んだ弁当を学校へ届けに行く必要もなくなる。そして小姓町《こしやうまち》の懸山《かけやま》さんまで碁のお使ひにゆく必要もなくなる。そして、……そして、……そして。それから先はわからない。私は自分の推理がそんなつまらない事にしか及ばぬのを腹立たしく思つた。そんな事の外に、父が死んだらきつと何か悲しい大きなものがあるに違ひない。それが何だろう。自分が校長の子でなくなつて乞食になるのだらうか。そんなことではない。何か漠然とした悲愴な未知の世界があるのだ。……
私は寝床の上でぢつと目を開いて考へた。併しいくら考へてもそれが解らなかつた。自分の死に対する恐怖はいつの間にか去つてゐた。併しその漠然たる不安が小さな胸を押しつけた。
「いや併し父は死にはしない。そして自分も死にはしないのだ。」
暗い所にゐる者もいつの間にかゐなくなつてゐた。そして一条の黄色い線がすーつと其跡に走つてゐた。傾きかけた日が、雨戸の立て隙を通して、斜に光りを射込んだのである。
此少年は今度は其日の線を見凝《みつ》め乍ら、先から先へ連なる不安と、其不安の究極《いやはて》にある暗く輝かしいものを、涙を溜めて思ひ続けた。
いつの間にかうと/\して来た。小さい精神の疲れが恍《くわう》とした数分時の微睡《びすゐ》に自分を誘ひ入れた。そこへ、
「家中病人だらけだ!」
と云ひ乍ら兄が入つて来た。
目をあけて見るともう巨人も一条の線も壁にはなかつた。只粉つぽい薄暗が一体に室中《へやぢう》を罩《こ》めて、兄の顔が白くぼんやり見えた。兄は此弟とは異つた遊び場所の異つた遊び友達から、遊び疲れて帰つたのである。二人は不思議に一緒には遊ばなかつた。たまに一緒に遊んでも、弟の前で兄の権威を他人に示すのに急で、弟にはわざと辛らく当つた。そして其癖家にゐる時はひどくやさしかつた。
「どうだい辰夫。痛いのかい。」と兄は兄らしい同情を少年らしい瞳に輝かせ乍ら顔を寄せた。「お母さんはおまへ一人でいゝ思ひをした罰だと云つてるよ。」
「まだ少し痛いやうな気がするの。」自分はわざと心細げに云つた。さう云つた方が兄の同情に酬いる道であらうと思つたのである。「それよりかお父さんの方はどうしてゐるの。」自分はさつきの漠然たる恐怖と不安を遠い過去のやうに思ひ出し乍ら聞いた。
「うむ。お父さんはもう二度雪隠に行つたらすつかり癒つて了つたと云つてるよ。」
「ぢやもう起きてるの。」
「いや、まだ寝てゐるよ、寝て御本を読んでゐる。」
自分はすべてが過ぎ、すべてが平静に帰したと思つた。それで安心して、心にもない姉の事を聞いた。
「では姉さんは。」
「姉さんかい。姉さんは相変らず静かに寝てゐるよ。お前が鰻[#「鰻」は底本では「饅」]に当つたと云つたら、姉さんは私も中毒《あた》つてもいゝから食べて見たいつて云つたさうだよ。」
私の思ひはもう父を離れて寂しい静かな姉に移つて行つた。姉の死も遠くはない。姉は長野の高等女学校へ行つてゐたが、肺を悪くして帰つて来て、今自分の寝てゐる室から二間を隔てた、父の書斎の次の間に、静かに白く横はつてゐるのである。併し、その静かな死の予想は、此の小さい心に何の不安も残さなかつた。死は、やはり不意に来て、不意に奪ひ去る処に恐怖がある。私ははつきり白い姉の死顔を見たやうな気がした。併しそこには何ら私を脅かすものがなかつた。
「兄さん、姉さん処へ行つておやりよ。僕はもういゝんだから。」
兄は其|下《しも》ぶくれの顔に、何の感情をも浮べる事なく室《へや》を出て行つた。後には只穏かな、紫つぽい暗が残つた。
「もう大丈夫だ。」
と私は独語した。そして何となく熱と痛みの去つた後に来る恍惚状態の中に、眼を閉ぢた。その世界にはもう不安も恐怖もなかつた。やがては深い眠りが襲うて来た。……
三
夜中頃、その眠りから私はけたゝましい警鐘によつて起された。戸外《そと》には夜の風が出てゐた。絶えず連続した鐘
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