の音がそれに交つて流れて、一時腹立たしい思ひで起きた自分の心を、すぐ不安に変へた。兄はもう起きてゐなかつた。咄嗟の間に火事だと云ふ事だけは解つた。街道の方を人が圧搾されたやうな声を出して行き過ぎた。
 私は急いで帯を絞め直した。そして二階へ上つた。上つてゆくと、そこには欄干にもたれて父と母を除いた家族中の者が皆黙つて火事を眺め入つてゐた。
「辰夫か。今やつと眼がさめたのかい。」と兄が私を見て云つた。「御覧、お父さんの女学校が火事になつたのだよ。」
 私は兄の指す儘にその赤く爛《たゞ》れた空の下を見た。黒い屋根と樹木との幾輪廓かを隔てたその向うに、伸びたり縮んだりする一団の火があつた。そして其焔から数知れぬ紅の粉が或る所までは真直ぐに噴き上がつてそれから横になびいてゐた。そしてその火の粉の散ずる所、かつかと爛《たゞ》れた雲の褪せていく処には、永久の空がぢつと息をひそめて拡がつてゐた。
 火の上がる処には何だか貝殻を吹き鳴らすやうな音と、ぱち/\と爆《は》ぜる音があつた。
 どうかすると火がぱつと光りを増して、その度に向うの屋根の上にゐる幾人かの人数《にんず》を明かに照らし出した。田舎から喞筒《ぽんぷ》を曳いてくる鈴の音と、遠近《をちこち》に鳴り響く半鐘とが入り乱れて、誰の心にも、悲愴な感じを漲《みなぎ》らした。併し各人は其音を聞いたとは思はなかつた。そして只音なく燃える眼前の赤いものを手を束《つか》ねて見てゐると云ふだけの気がした。
 私には激しい胴ぶるひが起つて来た。併しそれは恐怖ではないらしかつた。その中には異常なものを見る快感が妙な混合をなして入つてゐた。
 しばらくして私はやつと、只見てゐる状態から思考を動かしうる状態に帰つた。するとすぐ頭に浮んだのは女学校の中央にある六角の時計台であつた。それで訊ねた。
「兄さん。もう六角塔は焼けて了つたのかい。」
「どうだか解らないが、燃えたかも知れないよ。」と兄が答へた。
 今、私の心の中にはつきりとその六角塔が浮んだ。そしてそれが燃えて無くなるとはどうしても思へなかつた。あの上田の町を見下してゐる白堊の六角塔。それはこの学校を何よりも美しく見せ、此町のあらゆる家並《やな》みを統《す》べてゐる中心であつた。そして或意味でそこの校長である父の誇りでもあり、そこへ通ふ生徒の憧憬の的でもあつた。自分の幼ない心には、学校のすべてが父の所有物であるやうに確信してゐた。そして今其所有物である校舎、殊にその六角塔が焼け失せるとはどうして思ひ得よう。自分は父を思つた。そして父がまだ腹痛に悩んでゐてこの光景をすら見《み》ずにゐるのではないかと思つた。
「お父さんはどうしたの。」私はきいた。
「お父さんはさつき急いでお出掛けなすつたよ。」と今度は傍にゐた叔母が何の雑作もなく答へた。
 自分は黙つて再び火に見入つた。そこには何物か崩れて再び火光に凄惨を増した。「よく燃える!」とどこか近処の屋根でいふ声が聞えた。「ほんとによく燃える!」
 いつの間にか母が上つて来て、私の小さい肩に手を置いた。さうして強ひて沈《お》ち着けた声音《こわね》で、
「さあ、風邪を引くからもうお寝。」と云つた。
 私は黙つて母の顔を見た。焔に薄紅く照らし出された其顔には、有り有りと抑へ切れぬ動揺が映つてゐた。母も、子と同じく、この時暗を衝いて心痛と危惧とに駆られ乍ら、火団《くわだん》を目がけて走つてゆく父の姿を思ひ浮べてゐるのであつた。

     四

 その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言の中にすべてを読んだ。そして台所で手水《てうづ》を使つてゐる中に、そこにゐた人々の話から、火事の原因が小使の過失らしい噂と、六角塔が瞬く間に焼け落ちて、階上に収めた御真影と大切な書類がすつかり焼けて了つた事を知つた。自分には最初その御真影と云ふ言葉が解らなかつた。それで再び其男の説明によつて解つたけれども、依然として其焼失がそれ程重大なものであるとは考へもつかなかつたのである。(幼なき無智よ!)
 朝飯を済ますと、(下痢はしてゐたが、いつの間にか腹痛は止んでゐた)私はひそかに家を出て火事場を見に行つた。幼ない心で念じて行つたに係はらず、街角を曲つて行手を見ると、そこにはいつも日を受けて輝いてゐる六角塔が無かつた。そしていつも其風景の補ひをする街樹《がいじゆ》がひどく寂しい梢で空を画《くぎ》つてゐた。
 火事場に近づくと妙な匂ひが先づ鼻を搏つた。そしてそれと覚しいほとりには、白い処々黄まだらな煙りが濛々と騰《あが》つた、その煙りの中を黒い人影が隠見してゐた。
 私は立並んでゐる幾人かの人に交つて、焼け残つた校門の傍に立つた。裾から立昇る煙りの上には、落ち残つた黒い壁と柱の数本が浅ましく立つてゐた。
「どうだい。よく燃えたもんぢやないか。」見物の一人が顧みて他の一人に云つた。
「うむ、何しろ乾いてると来た上、新校舎がペンキ塗りだらう。堪まりやしないよ。」と一人が答へた。
「またゝく間に本校舎の方へ移つたのだね。」
「うむ、あの六角塔だけは残して置きたかつた。」
「でも残り惜しさうに骸骨が残つてるぢやないか。」
 かう云つて二人は再び残骸を見た。併しその顔には明かに興味だけしか動いてゐなかつた。私にはその無関心な態度が心から憎らしかつた。
 他の一群では又こんな事を話し合つてゐた。そしてそこでは私は明かに父の噂を聞き知つた。
「何一つ出さなかつたつてね。」
「さうだとさ。御真影まで出《だ》せなかつたんだとよ。」
「宿直の人はどうしたんだらう。」
「それと気が附いて行かうとした時には、もう火が階段の処まで廻つてゐたんださうだ。」
「何しろ頓間《とんま》だね。」
「それでも校長先生が駆けつけて、火が廻つてる中へ飛び込んで出さうとしたけれども、皆んなでそれをとめたんだとさ。」
「ふうむ。」
「校長先生はまるで気狂ひのやうになつて、どうしても出すつて聞かなかつたが、たうとう押へられて了つたんだ。何しろ入れば死ぬに定まつてゐるからね。」
「併し御真影を燃やしちや校長の責任になるだらう。」
「さうかも知れないね。」
「一体命に代へても出さなくちやならないんぢや無いのか。」
「それはさうだ。」
 私は聞耳を立てゝ一言も洩らすまいとした。併し会話はそれ以上進まなかつた。要するに彼等も亦《また》無関係の人であつたのである。が、彼等の間にも、御真影の焼失といふことが何かしらの問題になつてゐて、それが父にとつて重大なのだと云ふ事だけは感知された。
 その中《うち》に群集の中に「校長先生が来た。校長先生だ。」と云ふ声が起つた。
 其時、私は向うの煙りの中から、崩れた壁土を踏み乍ら、一人の役人と連れ立つて此方へやつてくる父の姿を見た。門のほとりにゐた群集は、自づと道を開いて二人の通路を作つた。平素《いつも》の威望《ゐぼう》と、蒼白な其時の父の顔の厳粛さが自《ひと》りでに群集の同情に訴へたのである。二人は歩き進んだ。そして、私ははつきり父の顔を見る事が出来た。広い薄あばたのある顔が或る陰鬱な白味を帯びて、充血した眼が寧ろ黒ずんだ光りを有《も》つてゐた。そして口の右方に心持皺を寄せて、連れを顧みて何か云はうとしたが、止めた。
 私は進んで小さな声で「お父さん。」と呼んでみた。何か一言父に向つて云はなくちやならぬやうな悲痛なものを、父はうしろに脊負つてゐたのである。
 父は黙つて四辺《あたり》を見廻し、やつと其声の主なる私を見つけると寧ろ不審がつた顔附をした。そして何とも答へずに連れの人とそゝくさ去つて了つた。私は父が私だと認めたのかどうかを思ひ惑つた。併し再び呼びかける勇気はなかつた。それで一人父の後ろ姿を眺め乍ら、涙ぐましく指を噛んだ。
 古い群集は散つて、新らしい群集が、更に多くの数を以て其席を満たした。そしてそこでも新らしく御真影の噂と、父の話が聞かれた。或る人々らは此の小さな息子がそこに長い間|佇立《ちよりつ》してゐるのを認めた。併し其眼が涙ぐんでゐるのを見出す程には、此少年に興味を持たなかつた。

     五

 暫らくして家へ帰ると、父も帰つてゐた。併し書斎に入つたきり、見舞ひの人が来ても不快だからと断つて出て来なかつた。私は兄から父が何か大変心痛してゐるのだと云ふ事を聞いた。そして母からは書斎に人の入るのを禁じて、何か一生懸命書き物を調べてゐる由を教へられた。
 息を潜めたやうな不安が家中に漲つた。誰も彼も爪尖《つまさき》で歩くやうな思ひで座敷を出入した。すべての緊迫した注意が書斎に向けられた。家中はしんとしてゐた。そして書斎から起る音は紙一枚剥くる音でも異常な響を齎《もた》らした。只時々、此の白らみ渡つた静寂に僅かな動揺を与へるものは、寝てゐる姉の空虚な咳であつた。
 お昼になると母が襖の前で、(中に入ることを禁じられてゐるので)
「お昼ですが、御飯を召上つてはいかゞです。」と父に呼びかけた。襖を隔てた書斎の中では、何か紙をぴり/\と裂く音がした。そして其次の瞬間には父の錆びた重みのある声が響いた。
「俺はまだ食べたくない。あとにする。」
 母は其声の中に明かに何物かに対する腹立たしさと、何物かに対する信念を読んだ。しかも其声が何となく焦《い》ら立《だ》つて老人のそれに彷彿してゐるのを悲しく感じた。
 母は黙つて襖の前で首を垂れた。
 父は三時になつても四時になつても出て来なかつた。そして書斎ではことりと云ふ音もさせなかつた。夕飯になつても出て来る様子がなかつた。家中の人は眼を見合はすのさへ憚《はゞか》るやうになつた。お互ひの眼の中に疼《うづ》いてゐる不安をお互ひに見たくなかつたのである。
 たうとう堪《こ》らへ切れなくなつた母は、母らしい智慧で父の様子を知る一策を案じ出した。母は私を隅の方に呼んで此方策を授けた。それは私が厳重に禁《と》められてゐる囲みを破つて、無邪気に書斎に侵入して、父の動静を見て来ると云ふのである。
「お前ならね。お父さんだつてきつと怒りはしないよ。いゝから知らない振りをして入つて行つて御覧。」
 と母は云つた。母に取つての父は、子にとつての父よりも或場合遥かに怖ろしいものであつた。私はかう云ふ母の眼の中にある弱きものゝ哀願をぼんやり心に沁みて聞いてゐた。そして私の心は先づ此の母に対して大任を果しうる嬉しさと、無邪気の仮面の下に隠れて行動する快感とに閃めいた。それで妙な雄々しさを感じ乍らその云ひ附けに従ふ事になつた。
 私は書斎の襖の前に立つて、暫らく躊躇した。自分の今行はうとする謀計《ぼうけい》に対する罪悪の意識が、ちらと頭に浮んだのである。併しそれはすぐ消えた。それより大きな感情上の勇気と好奇心とがそれを圧倒したのである。私は鳥渡《ちよつと》身じまひを直して、それから自分が飽く迄無邪気を装ひ得るといふ大なる自信の下に、襖の引手をするりと引いた。
 八畳の書斎の中央に、一|閑《かん》張《ば》りの机を前にして父は端然と坐つてゐた。そして其眼はぢつと前方遠くを見凝《みつ》めてゐた。机の上には一冊の和本と、綴ぢた稿本《かうほん》とが載せてあつた。私はすぐに父が詩を作つてゐるのだなと思つた。そして父の姿に予期してゐた動揺の少しも現はれてゐないのに落胆をさへ感じた。父の体全体には平静があるのみであつた。併し其永遠を見凝めてゐる眼の中に、永遠に訴へてゐる懊悩のあるのを、どうして此の少年が見出し得よう。私は今朝の父と、今の父とに明かな変化を認めて了つた。けれども其変化が一つは動一つは静であるだけで、等しく同じ襖悩の表現であるのを知らなかつたのである。
「お父さん、どうして御飯をたべないの。」
 私は咄嗟の間にさう聞いた。父は静かに顔を私に向けた。広い白い薄あばたのある顔がしばらくぢつと私の方に疑ひ深く向けられてゐた。
「食ひたくなつたら食ひにゆく。」父は云つた。そして叱るよりは、願ふやうな軟かさを含して、「辰夫。おまへも此処へ入つて来ちやいけないぞ。」と云つた。
 私はその平
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