れて了つたんだ。何しろ入れば死ぬに定まつてゐるからね。」
「併し御真影を燃やしちや校長の責任になるだらう。」
「さうかも知れないね。」
「一体命に代へても出さなくちやならないんぢや無いのか。」
「それはさうだ。」
 私は聞耳を立てゝ一言も洩らすまいとした。併し会話はそれ以上進まなかつた。要するに彼等も亦《また》無関係の人であつたのである。が、彼等の間にも、御真影の焼失といふことが何かしらの問題になつてゐて、それが父にとつて重大なのだと云ふ事だけは感知された。
 その中《うち》に群集の中に「校長先生が来た。校長先生だ。」と云ふ声が起つた。
 其時、私は向うの煙りの中から、崩れた壁土を踏み乍ら、一人の役人と連れ立つて此方へやつてくる父の姿を見た。門のほとりにゐた群集は、自づと道を開いて二人の通路を作つた。平素《いつも》の威望《ゐぼう》と、蒼白な其時の父の顔の厳粛さが自《ひと》りでに群集の同情に訴へたのである。二人は歩き進んだ。そして、私ははつきり父の顔を見る事が出来た。広い薄あばたのある顔が或る陰鬱な白味を帯びて、充血した眼が寧ろ黒ずんだ光りを有《も》つてゐた。そして口の右方に心持皺を寄せ
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