手品師
久米正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)霽《は》れ上つた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)必要上|此処《こゝ》に入つて匿名で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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浅草公園で二三の興行物を経営してゐる株式会社『月世界』の事務所には、専務取締役の重役がいつもの通り午前十時十五分前に晴々しい顔をして出て来た。美しく霽《は》れ上つた秋の朝で、窓から覗《のぞ》くと隣りのみかど座の前にはもう二十人近くの見物人が開館を待つてゐる。重役はずつとそれらを見渡して、満足さうに空を仰いだ。すぐ前にキネマ館が白い壁を聳《そばだ》ててゐるので、夜前の雨に拭《ぬぐ》はれ切つた空が、狭く細い一部分しか見えない。併《しか》し重役はそこから輝き落ちる青藍の光芒《くわうばう》をぢつと見やつて眼をしばたゝいた。
「いゝ天気ですね。此《この》分ぢや今日は嘸《さぞ》込むでせう。」傍の事務員が話しかけた。
「天気商売をしてゐると初めて太陽《てんたう》様の有難味《ありがたみ》がわかる。」重役は窓から身を引き乍《なが》らそれに答へた。そして其《その》時自分にお辞儀をしかけた若い座附作者を眺《なが》めて、「君なぞはまだ解るまいが、浅草《こゝ》は天気模様によつてすぐ百二百は違ふんだからね。」
「何しろ今日の日曜は満員でせうな。」とその作者はまだ学生の癖のとれない抑揚で気軽に云つた。
「うむさう/\、君を褒《ほ》めようと思つてゐた処《ところ》だ。」と重役は若い人を奨励する時に誰でもするやうな表情で云つた。「今朝湯の中でうちの小屋の評判を聞いたよ。何でも君の今度の連鎖劇が大変受けてゐるらしい。」
「有難い仕合《しあはせ》です。」作者は妙に苦笑し乍ら云つた。「これからも精々いゝ種を仕入れるとしませう。」
此の作者は今年大学を出た許《ばか》りであつた。そして単に食ふことの必要上|此処《こゝ》に入つて匿名で連鎖劇を書いてゐた。彼には一人で高級な創作をしてゆくだけの自信も無かつたし、それに加へて学校にゐる時分から既に職業といふ問題を考へなくちやならない境遇にあつた。食つてゆくためには仕方がない。彼はあらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入つた。
勿論《もちろん》作者と云ふ商売は面白くないものではなかつた。自分の書いたものが、白いシーツに写つたり、脚光に照らし出されたりして、観客の感情をいろ/\と唆《そゝ》り立てる事は、ひそかにそれを見てゐる彼にとつても尠《すく》なからず愉快であつた。一日《ついたち》と十五日には職工の休み日なので毎《いつ》も満員であつたがその三階まで充満した見物の喝采《かつさい》が、背景の後ろにゐる彼の耳まで達する時、彼は思はず微笑《ほゝゑ》んで四囲《あたり》を見廻すのが常であつた。或《ある》時は特等席に来てゐる美しい芸者が忍び音に彼の悲劇に泣いてゐるのも見た。或時は豪放らしい学生が思はず彼の活劇に興奮してゐるのも見た。
初め入つた頃彼は一日も早く此んな厭《いや》な商売をよして了《しま》ひたいと思はぬ日はなかつた。座長からは妙な註文が出る。大道具がごてる。撮影技師からは場面の除去を申し込まれる。事務からは不平が起る。彼はほと/\困惑した。そして一日も早く自由が得られ、思ふまゝの創作ができる日を望んだ。
併し、慣れるに伴《つ》れて、骨《こつ》を呑《の》み込んで了ふと、すべてが御し易《やす》くなつて来た。見物といふものも初めは恐かつたが今は可愛《かはい》くなつた。彼は彼等の心もちを自由に浮沈させる事が愉快になつて来た。厭で堪《たま》らなかつた商売がだん/\面白くなつて来る。此頃ではふと生涯の目的を忘れるやうにすらなつた。そしてそれと気がつくと驚いて自分を叱《しか》つた。此儘《このまゝ》下らない作者に堕《お》ちて了ふのは、余りに惜しい芸術的素質が自分にはある筈《はず》だ。併し自分の創作が思ふまゝにできる日はいつ来るであらう。その日の来るまでに、此商売が自分を毒して了ひはしないだらうか。彼はつく/″\職業といふことを考へた。人が何を措《お》いても先《ま》づ食つて行かなければならないと云ふのは何といふ悲惨なことであらう。併し世間には好きなことをして食つて行く人もあるんだ。自分の信ずる道を歩いてそれで報酬を得てゐる人もあるんだ。彼は世間の自由な文学者の事を考へた。学者のことを考へた。それからあらゆる職業のことを考へた。職業にはいろ/\ある。
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