そしてそれ/″\の人々が他の職業を羨《うらや》んでゐる。併し自分の第一義と信ずる仕事を職業となし得ぬのは何たる苦痛であらう。……
作者はそれからそれと考へ及ぶ問題を事務所の片隅で上下してゐた。
もう疾《と》うに開館を報《し》らす鐘が鳴り渡つて、座の方には見物が半分ほども入つた頃である。楽隊の音が聞える。拍子木の響がする。客を呼ぶ黄色い声が起る。見物の足音が聞える。外の世界は今|雑沓《ざつたふ》と喧騒《けんさう》とに充《み》たされてゐる。併しこゝの事務所はひつそりして倦怠《けんたい》と無為とが漂つてゐる。重役はもう自分の机に坐つて、何か此次にチャリネ館にかける新奇な趣向でも考へてゐるのだらう。座の方へ出払ひ残つた二三の事務員は退屈さうに『浅草だより』の演芸欄を見てゐる。も一人は只《たゞ》黙つて此次の芸題を刷り出したビラを見るともなく見つめてゐる。……
「彼等とても自分の職業を悦《よろこ》んではゐないのだな。」と若い作者は考へた。
その時受付の女給が一枚の名刺を持つて入つて来た。そして重役の卓の上に置いた。重役がそれをとりあげて見ると名刺には『新帰朝手品師、ジャングル・ジャップ事、江本進一』と書いてある。重役の顔には一時妙な予期の皺《しわ》が生れた。そして其下から幅の広い声が出た。
「宜《よろ》しい。此処へ通せ。」と女には答へて、重役は事務員に向つて、かうつけ加へた。「又手品師が雇つて貰ひに来たよ。例によつて試験をしてやらうと思ふ。」
「うまかつたらチャリネ館の方へ掛けるんですか。」と事務員が訊《き》いた。
「さうだ。異《かは》つた手品ならもう一人位あつていゝだらう。」
作者の黙想が一時破られた。併し彼は咄嗟《とつさ》の間に「あゝ世には手品師といふ職業もあるんだな。」と考へついた。――
手品師は、女給に伴れられて事務所へ入つて来た。見ると青い縞《しま》の洋服を着てゐる。山高帽を脱いで手に持つてゐる。そして厭に落着いた足どりで入つて来る。彼は四方《あたり》を見廻して、軽く皆に会釈をし乍ら重役に近づいた。重役は立上つた。二人は日常の挨拶《あいさつ》をし合つた。
「今迄どこにゐたんだね。」重役は鷹揚《おうやう》に訊いた。
「上海《シャンハイ》にゐました。その前は永く米国にゐたんです。手品はそこで修業しました。私のは手品といつても他人《ひと》のと異つてますんで、入神術
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