へて学校にゐる時分から既に職業といふ問題を考へなくちやならない境遇にあつた。食つてゆくためには仕方がない。彼はあらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入つた。
勿論《もちろん》作者と云ふ商売は面白くないものではなかつた。自分の書いたものが、白いシーツに写つたり、脚光に照らし出されたりして、観客の感情をいろ/\と唆《そゝ》り立てる事は、ひそかにそれを見てゐる彼にとつても尠《すく》なからず愉快であつた。一日《ついたち》と十五日には職工の休み日なので毎《いつ》も満員であつたがその三階まで充満した見物の喝采《かつさい》が、背景の後ろにゐる彼の耳まで達する時、彼は思はず微笑《ほゝゑ》んで四囲《あたり》を見廻すのが常であつた。或《ある》時は特等席に来てゐる美しい芸者が忍び音に彼の悲劇に泣いてゐるのも見た。或時は豪放らしい学生が思はず彼の活劇に興奮してゐるのも見た。
初め入つた頃彼は一日も早く此んな厭《いや》な商売をよして了《しま》ひたいと思はぬ日はなかつた。座長からは妙な註文が出る。大道具がごてる。撮影技師からは場面の除去を申し込まれる。事務からは不平が起る。彼はほと/\困惑した。そして一日も早く自由が得られ、思ふまゝの創作ができる日を望んだ。
併し、慣れるに伴《つ》れて、骨《こつ》を呑《の》み込んで了ふと、すべてが御し易《やす》くなつて来た。見物といふものも初めは恐かつたが今は可愛《かはい》くなつた。彼は彼等の心もちを自由に浮沈させる事が愉快になつて来た。厭で堪《たま》らなかつた商売がだん/\面白くなつて来る。此頃ではふと生涯の目的を忘れるやうにすらなつた。そしてそれと気がつくと驚いて自分を叱《しか》つた。此儘《このまゝ》下らない作者に堕《お》ちて了ふのは、余りに惜しい芸術的素質が自分にはある筈《はず》だ。併し自分の創作が思ふまゝにできる日はいつ来るであらう。その日の来るまでに、此商売が自分を毒して了ひはしないだらうか。彼はつく/″\職業といふことを考へた。人が何を措《お》いても先《ま》づ食つて行かなければならないと云ふのは何といふ悲惨なことであらう。併し世間には好きなことをして食つて行く人もあるんだ。自分の信ずる道を歩いてそれで報酬を得てゐる人もあるんだ。彼は世間の自由な文学者の事を考へた。学者のことを考へた。それからあらゆる職業のことを考へた。職業にはいろ/\ある。
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