かれてゐた。
 夕飯《ゆふはん》後など、原稿が書けないでゐると、風の加減で山の上から若葉越しに軽快なダンス・ミユージツクが、手に取るやうに聞えて来る。さうすると何となく、どうしても、見にだけでも、行《ゆ》かずには居られなくなる。……さう云つた訳で、ボールのある毎《ごと》に、ちよい/\自分は其方《そつち》へ出かけて行つて、人々の踊るのを眺めてゐた。
 そしてたうとう、或時マダム平岡に舞踏場の中へ引き出された。此の園主夫人は、日本婦人中でも一二と云はれる、社交ダンスの名手であるが、前から熱心に私にもダンスをやるやう勧めてゐた。
「……ほんとにいゝ運動ですよ。私《わたし》などはダンスのおかげで、此頃は大変丈夫になりました。ダンスの後はほんとによく疲れて、夜もグツスリ寝られるやうになりますからね。」
 夫人は繰り返し繰り返し、さう云つた。
 ホテルに同宿してゐた、浅野造船に出てゐる英国人の技師も、頻りに good exercise だと云つて私に勧めた。
「まあ兎に角、私と一緒にボールの真ん中へ出て、勝手に歩いて御覧なさい。踏んだつて関《かま》ひませんから。」
 夫人にかう云はれると、私は思ひ切つて、踊つて見る気になつた。そしておづ/\と、滑《なめらか》に光つてゐる床の方へ、夫人と一緒に出て行つて向ひ合つた。そして見やう見真似と、松山君に鳥渡教へて貰つた通りの作法で、夫人の右手を自分の左手で取り、右手を既に袂《たもと》を少し掲げて、挿し入れるやうに用意してゐて呉れる夫人の腋下から、擁《かゝ》へるやうに背へ当てた。何だか不安で、自分の腋下《えきか》に汗を掻くやうな気持だつた。そして身体《からだ》も不安定だつた。それは平常対人関係に於《おい》て、握手とか抱擁とか云つたやうな、接触に少しも馴れてゐない日本人としては、誰しも無理のない事であらう。併《しか》しそれでも、決して性的の気持とか、それに類した感じなどは、少しも起らなかつた。――それは相手が平岡夫人だつたから、と云ふ訳からではない。性的な事などを、考へる余裕もない程、如何《いか》に踊るべきかに就いて、焦慮し専念されてゐるのだ。
 それにつけても一体に、社交舞踏が一種の性的情緒を起すと云ふことが、一部の非難にはなつてゐるが、しかし私自身の経験から云へば、舞踏者それ自身に、なか/\、殆《ほと》んど決してと云つてもいゝ程、さう云ふ気持にはならないものである。それは私が、まだ芸道未熟で、それだけの余裕がないせゐもあらうが、事実他の人々に聞いても、踊つてゐる中は大抵誰でも……シミイとかチークとかいふ特殊なダンスでない限り、さうした欲情に捉はれる事などはないさうである。そして若《も》しありとすれば、それは一種抽象的な、浄化された気分の醸製に過ぎなからう。却《かへ》つてさう云ふ感じを起すのは、踊らない、踊りを知らないで見てゐる、第三者の閑《ひま》な聯想《れんそう》のやうである。
 余談は扨《さ》て措《お》き、かうして私は平岡夫人と、不安な足どりのまゝ、誘《いざな》ふやうな音楽に連れて、曲りなりにも歩き出した。よた/\と、ひよこり/\と。……平岡夫人は併《しか》し懸命に、此の何時《いつ》踏み間違ふか分らない私の足を、敏感に予知してうまく従いて来て呉れた。
 一と舞曲の間は永かつた。中途で早く止んで呉れゝばいゝと思ふ位ゐだつた。が、其の中《うち》に不安の中《なか》にも、何だか妙な快感が生じて来た。少しの間でも、自分のステツプが一人前らしくなだらかに行くと、何だか天地の音律《リズム》と合致したやうな、一種の愉悦の念を覚えて来た。……
 夫人と一回踊り終ると、もう私もすつかり大胆になつて了つた。そして今度は、丁度其の場へ谷崎令妹葉山三千子君や其の友達が来てゐたので、隙《すき》を見て一緒に踊つて貰つた。そして一と廻りの中《うち》、少くとも三四回はステツプを間違へて、時々は相手の足を踏みつけた。
 其の頃、花月園へ、月曜と金曜とは、松田ラムプの社員たちが、二十人ほど揃つて、夫人からダンスを習ひに来てゐた。私は早速《さつそく》、其の人たちの中へ入れて貰つて練習した。其の人たちは皆、さう金持らしくない月給取りばかりだつたので、私も大変親しい気持で、仲間に入れて貰つた。さうなると私の凝り性で、廊下を歩いてゐても、散歩をしてゐても、思ひ出してはワンステツプ・ツウステツプだつた。おかげで連中の中では、やゝ上達の度が早かつた。
 そして其の次の週には、まだ足も腰もよく定《きま》つては居なかつたが、丁度、鶴見の舞踏場拡張の祝賀ダンスだつたので、図々しく其の中に交つて、下手《へた》は下手なりに、踊つてやつた。相手の困るのも知らずに。
「舞踏は図々しくなくちや駄目ですよ。一体貴方がたは、少し図々しさが欠けてゐるんだから、その意味
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング