私の社交ダンス
久米正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お濠《ほり》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それは又|所謂《いはゆる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぐわん[#「ぐわん」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ムザ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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確かジムバリストの演奏会が在つた日の事だつたと思ふ。午後四時頃、それが済んで、帝劇を出た時は、まだ白くぼやけたやうな日が、快い柔かな光で、お濠《ほり》の松の上に懸《かゝ》つてゐた。
音楽の技巧的鑑賞には盲目《めくら》だが、何となしに酔はされた感激から、急にまだ日の暮れぬ街路へ放たれた心持は、鳥渡《ちよつと》持つて行きどころがない感じだつた。「さて、どうしようか。」と、僕たち二三人は行きどころに迷つてゐた。そして、此《こ》の興奮を抱いて、ムザ/\つまらない所へ行くのは、何だか惜しい気がするが、結局銀座でもぶら/\歩いて、時を消す外《ほか》ないと思つてゐた。
と、後から、追ひ越して来た松山君が、
「どうです。そんなら僕らのダンス場へ行つてみませんか」と誘つて呉れた。
ジムバリストからダンスへ。何だか少しジムバリストの後味《ナハシユマツク》に対して済まないやうにも感じたが、生まれてまだ一度もダンス場なるものを見た事がないので、かう云ふ機会を外《はづ》しては、又わざ/\其《そ》の為めに出かけでもしない限り、ダンス場なるものに近づけないと思つて、直ぐ従《つ》いて行《ゆ》く事にした。音楽会からダンス場へ。――それは又|所謂《いはゆる》かの「文化生活」とやらに誂へ向きな話だ。
「文化生活」と云ふものも、味《あじは》つて置いて損はない。そんな一種皮肉な気持もあつて、例の微苦笑を湛へながら、兎も角も其の当時在つた江木《えぎ》の楼上へ行つて見た。
其処《そこ》には其の頃研究座に出る女優さんが、二人来て居た。二人とも髪を短く切つて、洋服を着てゐたが、それが反感を持てぬ位《くら》ゐ、よく似合つてゐた。私は急に何だか異つた世界へ、誘ひ込まれた小胆《せうたん》さで、隅の方で小さくなつて見物してゐた。
やがて蓄音器をかけて、松山君と其の人たちが踊り始めた。其の踊りの第一印象は、「何だ、こんなものなら、俺にだつて直ぐ出来さうだ。」と云ふやうな心持《こゝろもち》だつた。音楽に合《あは》して、歩いてゐれやあそれでいゝんぢやないか。と、そんな風に造作もなく思つた。それが病みつきの本《もと》で、又間違ひの本だつた。――全く社交ダンス程、入《い》り易くて、達し難きものはない。が入《い》りいゝ事だけは確かだ。そして別にさううまくならなくても、自《みづか》ら楽しみ得さへすれば、社交ダンスの目的は終るのだから、それだけでもいゝのだ。
兎に角、私はかうして見て居る間に、直ぐ踊りたくなつたのは事実だつた。が、それと同時に、何だか気恥しいやうな、何ものにか済まないやうな気も起らないではなかつた。そして、それは動《やゝ》もすると、坊間《ばうかん》の「ブルヂヨアに対する反感」に似たものへ、迎合されさうな気さへした。
一時間ほど居て、僕たちは其処を出た。
「どうだい。ダンスは?」僕は一緒に大人しく見てゐた、O君とS君とに云つてみた。
「うむ。新時代の女性も悪くないが、あゝいふのゝ仲間入りは少々恐入るね。僕には到底エトランゼエだ」
「ダンスなんて一種のぐわん[#「ぐわん」に傍点]みたいなもんぢやないですか。僕には迚《とて》も正視する事が出来ない位ゐですね。」
O君とS君とは、そんなやうな事を口々に云つた。
「君たちは揃ひも揃つて天保時代だね。一概にさう反感を以《もつ》て、あゝ云ふ世界を頭から拒絶して了《しま》ふのは、寧《むし》ろあゝ云ふものに敗ける事だよ。其《その》点では僕はもつと勇敢だ。僕は是《これ》からダンスを始めるよ。」
それから半月ほど経つてからだつた。当時、家に居ると来客や雑用で、どうも原稿の書けなかつた私は、よく東京近郊の宿屋へ出かけて、其処で月々の仕事を片付ける事にした。そして其の一つの常用地として、長谷川|時雨《しぐれ》さんの妹さんがやつてゐる、鶴見《つるみ》の花香苑《はなかゑん》があつた。確か六月の事だつたが、いつもの通り其処へ出かけて行つてみると、生憎《あいにく》部屋が一ぱいだつた。で、平岡権《ひらをかごん》八|郎《らう》君との関係上少しは知つてゐる花月園の、ホテルの方へ暫《しば》らく滞在する事にした。
花月園内には京浜第一の、大舞踏場がある事は、兼々《かね/″\》知つてゐた。そして其処では水曜と土曜と日曜とに、毎《いつ》もバンドが来て舞踏会が開
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