でももつと図々しくなる修養の積りで、おやりになるのが一番なんです。」
それでも其の頃舞踏場で知り合になつた、或る音楽家みたいな新聞記者みたいな男から、さう忠告された位ゐだつた。
併し私は矢つ張り、女の人に相手を申し込む時、鳥渡でも厭《いや》な顔をされると、すつかり悄気《しよげ》て了ふのが常だつた。或時は、私が相手を申込むと、其の人が人身御供にでも上つたやうに、廻りの人が目交《めまぜ》で笑ひ合ふのを見た。そして一生其人たちとは、踊るまいと決心したが、併し又、他の知つてゐる人もない時は、節を屈して、と云ふよりは自分の芸道が到らぬのを嘆きながら、止むを得ず申込む外なかつた。それを又舞踏場で知り合つた、或る紳士に笑ひながら訴へると、其の紳士も云つた。
「いや、併し誰でも、一度は断られたり、侮辱されたり、ひどい目に会はされて来たんですよ。僕なんぞも或る女に申込んで、疲れてゐるからつて断られたのに、ふいと見ると今現に断つた女が、うまい西洋人と一緒に踊つてゐるのを見て、腹を立てた事がありましたよ。が、さう云ふ目に会つてもどうしても、是《これ》ばかりはやめられないから愉快ですね。何しろダンスを始めたら、中途でよす人がないさうですからね。貴方はどうですか。」
「さあ、僕もよせさうもありませんがね。なか/\うまくならないんで、癪にさはつて居ます。」
「だがどうです。ダンスをおやりになつてからの御感想は。――もつと若い中から、おやりにならなかつたのを、悔いるやうな気持はしませんか。僕なんぞは頻《しき》りにさう思ひますがね。これが二十代の頃からやつてゐたら、どんなに楽しかつたらうと。」
其の人はこんな風に、それからダンスに関する雑感を僕に徴《ちよう》した。
「いや、併し其の点では、僕は此年から始めたのを、寧ろ幸福に思つてゐます。と云ふのは、僕らも此頃はすつかり老い込んで、引込み思案になりかゝつた時、急に是をやり始めたら、何だか青春を取返したやうな気がしましたからね。是が若しもつと早く始めたら、妙に上づゝて了つて、かう静かに楽しくないかも知れません。僕は西洋人の年寄りなぞが、孫娘を連れて踊りに来てゐるのなぞを見ると、非常に嬉しく涙ぐましいやうにさへなります。今日も一組来てゐますね。」
「老夫婦が踊つてゐるのなぞも、美しい図ですね。それから横浜から来る領事の子供とかで、十七八になる姉娘と十五六の弟の少年が、一緒に踊つてゐるのを見ましたが、是もようござんしたよ。」
谷崎潤一郎氏も、其の頃、一家連れでよくやつて来た。そして此の悪魔主義の作家が可愛い鮎子ちやんの手を取つて、室の隅つこの方で、鮎子ちやんよりもたど/\しいステツプを踏みながら、踊つてゐるのを見るのも、決して悪い感じではなかつた。
それから矢張り横浜の或る医師のお嬢さんで、必ず両親の中の誰かに附き添われながら、踊りに来て居る人があつたが、父なる人が、娘の軽《かる》やかに踊るのを、――その人は大抵品のいゝ西洋人とばかり踊つてゐた。――さも嬉しそうに眺めて、一晩中|卓子《てーぶる》に坐つてゐるのも、決して悪い感じではなかつた。そして是からの人々は、決して社交ダンスと云ふものが、不良少年少女のものではない、生きた証拠のやうな気がするのだつた。
世上には、ダンス流行の声が高い。が、事実はそれ程の事はない。常に同じ顔振れで、同じダンス場をぐる/\廻つてゐるに過ぎない。私の見る所では、此の広い京浜間でも、内外人取交ぜて五百人とは居ないやうな気がする。そして色々な非難もあらうが、谷崎君も嘗《か》つて云つた通り、明るく快活な気持で、一|夕《せき》を過すと云ふ意味なら、もつと、寧ろ流行させたいやうな気がする。ダンスとプロレタリア! さう云ふ問題は、又|自《おのづか》ら別に存するだらう。が、ダンス其物が、必ずしもプロレタリアの思想と逆行するものでない事は、共産ロシアにもダンスが盛んでない事はないと云ふ一事で証明が付く。要は踊る『人』の問題だ。私は浅草あたりに、一つ民衆ダンス場を拵《こしら》へたいとさへ思ふ。ダンスは由来民衆的なものなのだから。……
茲《こゝ》に『私の社交ダンス』一篇を敢《あへ》て草する所以《ゆえん》である。
底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
1999(平成11)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「久米正雄全集 第十三巻」平凡社
1931(昭和6)年1月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月11日作成
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