てれば舵《かじ》はその日に誰れかを頼んだって間に合わぬこともない。これが高等学校以来もう六年も隅田《すみだ》川で漕いで来た窪田の肚《はら》であった。それでもいくら舵だって相応な熟練は要《い》る。一刻でも早く定まれば勝味が増すわけである。窪田は艇の経験ある学生を二三人心で数えて見た。そして熟考のあげく、津島という前の年に二番を漕いだ男を勧誘することに決めた。ところが窪田が訪《たず》ねて行って見ると、驚いたことには津島は下宿の六畳の間一ぱいに蔵経を積め込んで卒業論文を書いていた。(津島は宗教哲学を専修していたのである)窪田自身も卒業期ではあるが、これでは自分の呑気《のんき》をもって他を律するわけには行かないと思った。しかし話だけはして見ようというので相談して見ると、津島ももともと短艇がそう厭《いや》ではないし、ことに舵に廻るとなれば出たいのは山々であるが、到底出るわけには行かない。卒業論文の方はいいにしても四月始めには故郷へ帰って結婚するはずになっていると言うのである。さすがの窪田もこれを押しきって出ろと勧めるわけにはなおさら行かない。そのばかに困却した態度を見ると津島も気の毒に思った。そ
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