久野は少しく浅ましいような思いで皆の飯を食うのを待っていた。二番を漕いでいる早川なぞは久野の目の前で何とか申しわけをいいながら七杯目の茶碗《ちゃわん》を下婢の前に出した。そしておまけに卵を五つ六つ牛鍋《ぎゅうなべ》の中に入れて食べた。しかしその無邪気な会話と獣性を帯びた食欲の裏に、一種妙な素朴な打ち融《と》けた心持が一座の中に流れているのを久野はすぐ感知した。
食後には皆が一間に集まって雑談した。女の人の話なんぞもかなり修飾のない程度で交《か》わされた。が主な話は遠漕中の失策とか、練習中の逸話とかであった。そしてその合間合間に「短艇《ボート》なぞは孫子の代までやらせるもんじゃない」とか、「もう死ぬまで櫂《オール》は握りたくない」とか言う冗談の下に、練習の苦痛が訴えられた。主将の窪田は黙って笑いながらそれを聴《き》いていた。そして自分も高等学校の時、練習の苦るしさに堪えかねて合宿を逃げ出したが中途でつかまった話なぞして聞かせた。「苦るしいけれども今に面白くなるよ」と彼の眼瞼《まぶた》を垂《た》れた黒光りのする面貌《めんぼう》が語っていた。
打ち見たところ、皆はすっかり融け合っているらしかった。浅沼の去ったことが、皆の心もちにすべて異分子が除かれたというような感じを齎《もた》らして、皆の一倍親しみを作ったのであろう。小さな不和が大きな不和の去るとともに息を潜めたのであろう。すべてのことは主将の窪田の命令通りになされた。窪田はそれを命令として明白には口に出さなかったけれど、多年の経験から黙々として自分からやり出した。すると他の選手たちは命令によって動くという意識なしに、窪田の思い通りにそれに従い初めた。窪田の物倦《ものう》げに垂れた眼瞼の奥には、勝利を孕《はら》む幾多の画策が黙々として匿《かく》されてあった。けれども彼は一言もそれを口に出さなかった。彼は他の選手に鞭撻めいたことを一言も言わなかった。そしてじっと他の選手が彼ら自身の方から自発的に気色ばんで来るのを待っていた。彼の態度にはちょっと老将というような概《おもむき》があった。
十時近くなると皆は五分ずつバック台をやってそして健やかな眠りについた。久野だけが永い間眠らなかった。彼はまだ脚本を書き了えなかった。そしてその草稿を合宿所の二階へ持って来て書くことにした。それで第四幕をとうとう未定稿のままで発表することにしてしまった。十二時過ぎたので彼も床に入った。先刻までかなり騒がしかった四隣《あたり》の絃歌《げんか》も絶えて、どこか近く隅田川辺の工場の笛らしいのが響いて来る。思いなしか耳を澄ますと川面を渡る夜の帆船の音が聞えるようである。うとうとしている間に二三軒横の言問団子の製餅場で明日の餅《もち》を搗《つ》き初める。しかしそれを気にして床上に輾転《てんてん》しているのは久野だけである。彼は他の人たちの健やかな眠りと健やかな活力を羨《うらや》ましく思った。しかし明日から、彼らと同じく病的な蒼白《あおじろ》い投影のない生活をすることができるのである、それが愉快な予想となって彼の心にあらわれ初めた。
「やっぱりこんな生活に入って見るのもよかった」彼はこうつぶやきながらも一度|強《し》いて枕《まくら》を頭につけた。……
練習は朝の十時ごろから初まった。ゆっくり寝て、ゆっくり朝飯を済まして艇のつないである台船のところへゆく。敵手の農科はもう出てしまっている。もう千住くらいまで溯《さかのぼ》って練習しているのであろう、工科の艇も繋《つな》いでない。法科も漕ぎ出してしまった。医科と文科の艇だけがいつも朝はお終《しま》いまで残された。この二科はよく台船のところで一緒になった。
「いやあ、どうだい」医科の三番を漕いでいる背の高い西川という男が、高等学校以来の馴染《なじ》みでこっちの窪田に話しかけた。
「不景気だ」と窪田が言う。「農科の奴《やつ》ら八時ごろから出てやがる」
「文科っていうところはいつでも呑気だなあ」
「なにを言うんだ。君の方だって今出るんじゃないか」
「僕らの方は毎朝|腿《もも》を強くするために、三十分ずつランニングをして、それから一時間ほど寝てこっちへやって来るんだ。君の方の呑気とは違う」
「僕の方は自然のリトムに任せてやってるんだからな。決して無理はしないよ」
「ふん、短艇上の自然主義か。自然のままに任せて敗けないようにしろよ。今年の農科は素敵に強いぜ。身体だけを比較したら五科中一番だろう。おまけに柔道三段の奴が二人いる」
「柔道で短艇は漕げやしないよ。それや身体から言えば僕らの方が一番貧弱だ。がまあ勝負というものはわからないもんだからな」
「何しろお互いにしっかりやろうや」
「うん」
こんな会話がよく二人の間に交わされた。法科と医科とはいつもこっちと親しい口をきい
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