た。しかし農科と同じ二部系統に属する工科とは口もきかなかった。
 三月の半ば過ぎであるが、水上はまだ水煙が罩《こ》めてうすら寒かった。北が晴れると風が吹いて川面に波を立てた。だんだん陽春の近づくにつれて隅田を下る船の数が増して行く。そしてこのごろではそれを縫って走る各学校の短艇もめっきりおびただしくなった。
 一と力漕終って、水神の傍の大連湾に碇泊《ていはく》していた吾々《われわれ》の艇内では、衣物《きもの》を被《かぶ》って休んでいた窪田が傍を力漕して通る学習院の艇尾につけた赤い旗をみやりながら、「全く季節が来たな」と久野に話しかけた。久野は舵のところから「うん」と曖昧《あいまい》な返辞をしながら、鐘《かね》ヶ|淵《ふち》から綾瀬《あやせ》川口一帯の広い川幅を恍惚《こうこつ》と見守っていた。いろいろな船が眼前を横ぎる。白い短艇が向うを滑《すべ》る。ふと千住の方への曲り口に眼をやると、遠く一艘《いっそう》の学校の短艇らしいのが水煙を立てて漕ぎ下って来る。「おい窪田君。あれあ農科の艇じゃないかい」と久野は呼びかけた。
 窪田はむくっ[#「むくっ」に傍点]と起き上った。そして望遠鏡を久野の手から受け取ると急いでそっちを見やった。「うん、農科だ、農科だ」艇の人たちは皆一様に刎《は》ね起きた。窪田はじっと望遠鏡に目をあてて見ていたが、「あ力漕をするぞ。久野君時計を見ていてくれ給え。そらいいかい。初めた! 一本二本三本……」と窪田は櫂数を数え初めた。農科の方では無心に力漕を続けている。こっちの七人は息をひそめてだんだん漕ぎ近づいて来る敵艇を見守った。やがて窪田が百本ほど数えると農科の艇は漕ぎやめた。まだこっちの艇までには十分距離があるので、向うではこっちに気がつかぬらしい。ようやく望遠鏡を離した窪田は久野に、「何分かかったい」と訊《き》いた。
「三分と十秒ほどだ」と久野はストップ・ウォッチを見ながら言った。
「ふん。すると彼らは百本の力漕を練習しているのだな。あのピッチじゃ一分間三十六本ぐらいだから」と窪田はまた艇内に寝転《ねころ》びながら、誰れに言うともなく言った。
「奴らのやり方は、どうだい」と久野は心配そうに訊《たず》ねた。
「大丈夫だよ」窪田は単純に答えた。
「だって僕らはやっと三分の力漕ができるだけなんだからなあ」と四番の斎藤が静かな奮励を含んだ口吻《こうふん》で言った。
「なあにこれから三日目ごとに一分ずつ増して行けば競争までには楽に五分漕げることになるよ。三分どこが一番苦しいんだ。今の三分力漕を十分仕上げておけばあとの二分はその割に苦しくないもんだよ」と窪田は慰撫《いぶ》的に言った。皆の心には軽い奮励の心が湧《わ》いた。
 農科の艇はその後も幾度か勝ち誇った自信の下に、文科の眼前を力漕して通った。しかしこっちではそれを見せつけられた日にはことに皆の練習に油が乗った。そしてこのごろでは勝負などはどうでもいいなどと思っている久野までかなり激烈な敵愾心《てきがいしん》に支配されるようになった。こっちの艇は農科の前では努めてわざと力を抜いた。それでも向うも眼を光らして見送ることはこっちと異りなかった。いい加減な自信がついた時、誰言うとなく「農科の前を精一杯うまく漕いで見せてやりたい」と言い出した。しかし窪田はそれをとめた。そして競漕の三日前になったら、思う存分彼らの前でデモンストレーションをするからと言って皆をなだめた。その時分やっと窪田の思い通りに漕法が固まりかけていた。
 ある日こういうことがあった。文科の艇ではその日珍らしく弁当を持って上流の方へ漕ぎ溯《のぼ》って練習して見ようということになった。久野らは千住の手前で二度力漕をして、それからネギ(力を入れない漕ぎ方)で榛《はん》の木林の方へ溯った。するといつの間にかあとから農科の艇も漕ぎ上って来た。それも同じ調子でこっちを執拗《しつよう》に追跡して来るのである。何でも向うではこっちがそのうちに漕ぎ疲れて休むだろうから、そしたら漕ぎ抜いて早く上流へ溯ろうというのであろう。そうなるとこっちも意地である。向うが漕ぎやめるまでこっちも漕ごうという気になった。そしてネギとは言い条ほとんど力漕に近い努力で漕ぎ続けた。向うでは相変らずの調子で追うてくる。それでも艇と艇との間にはだんだん隔たりが生じてくる。皆はなおも興奮して小声で「ずんずん抜いてやれ」と囁《ささや》きながら漕いだ。ところが榛の木林を出外《ではず》れたところの川の真中に浚渫船《しゅんせつせん》がいて、盛んに河底を浚《さら》っていたが、久野は一度もこっちへ溯ったことがないので、どっちが深いのか分らず、何でも近い方をと思って船の左側に艇を向けたら、たちまちにして浅瀬に乗り入れてしまった。さあ皆が大いに慌《あわ》ててバックをして見たが
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング