一生懸命漕いだ勢いで泥《どろ》に深く喰《く》い込んだ艇はちっとも後退《あとすざ》りをしない。口惜《くや》しいがあまり慌てているのは醜態であるというので仕方なしに休めということになった。その間に農科の艇はこっちの右側を三艇身ばかりのところを「あと三十本、そら!」とか何とか懸《か》け声までして颯々《さっさつ》と行き過ぎてしまった。皆は歯噛《はが》みをなしてそれを見送った。「癪《しゃく》だなあ! 畜生」と誰れかが怒鳴った。久野は皆の前で、「済まない、済まない」と陳謝した。しかし皆の心の中では誰れもこれを「敗ける前兆じゃあるまいか」と考えて黙り込んでしまった。
その午後親しい同志の法科の艇から競漕を申し込まれた時、皆が一種の奮励の気味で応戦し、三分間の力漕をして、半艇身ほど法科を抜いたという快い事実がなかったら、この午前中の坐礁事件は永久に厭《いや》な記憶となって、競漕の時まで留まったかも知れない。しかしこの例年勝負にならないほど力量がある法科と、たとえ一時の練習にもせよ勝ったということは、選手を初めて勝利の確信にまで導いた。
「口惜しい奴らだなあ」と競漕の練習が済んで二つの艇を並べて休んだ時、法科の二番を漕いでいる小野がこっちを向いて言った。
「どうだ。こんなもんだぞ」窪田が威張って見せた。
「おめえたちの艇は水雷艇だな。ひょろひょろしてるくせに速い」と法科の艇舳《トップ》を漕いでいる、何でも瑣末《さまつ》なことを心得ているので巡査と渾名《あだな》のある茨木《いばらき》が言った。
皆はかなり好い気持であった。そしていつもよりは活気づいて艇庫に船を蔵《おさ》めた。夕飯には褒賞《ほうしょう》の意味で窪田が特別に一人約二合ほどの酒を許した。合宿で公然と酒を飲ませるのは真に異例であった。今まで選手の誰れ彼れことに二番の早川などが秘密に酒を飲んで来たことはある。別にそれを窪田は面責はしなかった。しかしその翌日の練習にはきっと六七分の続漕《ネギ》を課した。すると飲まない人は平気だが酒を飲んだ男は大抵参ってしまう。そして初めて練習中に酒を飲むことの害を自分で覚《さと》ってしまうのである。しかしこの日は少量であるが皆が心|措《お》きなく飲んだ。そして少し酔い気味で皆は、「是非勝つ。これだけ全力を注げば敗けるはずはない」などと盛んに自信の念を燃やし初めた。窪田は皆が勢いづいて来るのを黙って傍の壁に凭《よ》りながら見ていた。彼の顔には、「だんだん俺《おれ》の思い通りになって行くぞ」という満足の微笑があった。
二三日してから法科がまた口惜しがって挑戦《ちょうせん》をして来た。その時は四分の力漕をやってこっちが半艇身ほど敗けた。けれども法科とおっつかっつ[#「おっつかっつ」に傍点]に行くというのはもう紛れもない事実であった。そして皆はそれにかなり満足していた。
三
競漕の日はだんだん近づいて来る。その一週間ほど前に学習院の競漕会があった。それには文農二科が来賓として混合競漕をするはずになっていた。混合というのは敵味方の中堅――三番四番――を交換して漕ぐのである。この時が敵味方初めて正式に顔を合わせるの時であった。双方の艇は一緒に台船のところで順序の来るのを待っていた。選手の中では高等学校の関係から知った顔もあるので互いに挨拶《あいさつ》などをし合った。それからまるで艇のこととは関係のない問題を何か話し合っていた。文科の整調の窪田は農科の舵手《だしゅ》の高崎と同じ中学を出て同じく一高に入った親友であった。しかし高等学校の時からしばしば敵対の地位に立たせられて来たので、何となく疎隔されてしまい、今では二人はまるで外出行《よそゆ》きの話しかしなくなってしまった。二人は出身地方の土語を用いて妙な蟠《わだかま》りのある話を始めた。それも、
「今年はいつもよりお寒うござす[#「ござす」に傍点]な」というような当り障《さわ》りのないことを言うのであった。そしてたまたま艇のことに及んでもお互いに冷たい好意で敵手のことを賞《ほ》め、わざとらしいまでに自分の方を謙遜《けんそん》した。彼らはお互いに自分の方を「駄目ですよ、僕の方こそ駄目ですよ」なぞと言い合った。こうしているうちには誰れでも敵味方で二三言は言葉を交した。そしてお互いに敵手が案外人の好いのに驚いた。敵愾心などというものは平凡な発見ではあるが、ある団体間の自欺的邪推であるということが個人個人にはわかった。物に感じやすい四番の斎藤なぞは漕いでしまってから向うの舵手に「御苦労でした」と言われて今までの敵意をすっかり「隅田川へ流してしまった」と自白したほどであった。
しかし主将たる窪田らの心の中はこの間にも敵の船脚《ふなあし》や漕法に注意することを怠らなかった。彼は競漕の間に自分の艇へ来ている敵の中
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