身が入らないんです。それに何でしょう。競漕なんてものは一度はやって見ると面白いものですよ。合宿生活なんぞも学生のうちでなければ、到底味わうことが出来ない経験ですからね。あなただってやって決して損なことはありません。きっと請け合います」
「そうだ」窪田もそれに力を得て口を添えた。「創作でもするっていう人ならなおさらのことだよ。たまにはこういう団体生活もして見るさ。合宿生活なんてものは、全く単純で原始的で面白いものだよ。ある種の獣的な生活だがね。是非一度はやって見る必要があるよ」
「それあ僕だって好奇心の動かぬことはない」と久野は答えた。「しかし何しろ脚本も書きかけているんだし、それに舵を曳いた経験も古いことだからなあ。僕に堂々たる文科の選手なぞが勤まりはしないよ」
「それあ大丈夫だよ」と窪田がようやく久野の心の動き出したのを見て言った。「その点については心配することはない」
「全くそれは大丈夫です」津島も窪田の後から言い足した。
「窪田君のような隅田川の河童《かっぱ》がいるんですから、万事この人に任かせておくといいです」
「河童が川流れをするようなことはあるまいね」と久野は自身で、警句のつもりで言った。
「君が選手に出てくれなくちゃ流れるんだ」と窪田は久野の調子に引き入れられて彼には不似合いな冗談を入れた。
「全くです。流れかかってるんですよ。だからお願いします。溺《おぼ》れかかった人は藁《わら》でもつかむと言うじゃありませんか」と津島まで突拍子もないことを言い出した。
「じゃ僕を藁にしようと言うんだね」と久野は笑い続けた。「掴《つか》んで見てから無駄だったって後悔し給うな」
「大丈夫。助けると思ってどうか頼む」
「じゃ一つ甘んじて諸君の藁になるとするかな。しかし他の奴《やつ》らはまた久野が野次性を出し初めたと言うだろう」
「言ったって平気じゃないか」
「うむ、それは平気だ。芸術家の第一歩はすべてのものに好奇心を動かすのにあるんだそうだからね」
「全くです。全くです」と津島は久野の心持がまた変りでもすると大変だと思って、念を押した。「じゃ出て下さるんですね」
「まだ思案最中なんですよ」と久野は快答を与えるのが惜しいような心持で言いながら、首を俛《うなだ》れてみた。「何しろ書きかけてるんだからなあ」
「一体いつごろまでに出来るんだい」
「十五日までには書き上げる予定なんだ」
「じゃ十六日からでいいから出てくれ給え。そうすれば正味二十五日間の練習だよ」
「じゃ十五日までに書き上げられたら出るとしよう」
「よろしい。ありがとう。これでやっと安心した。では僕らは明日から四日間佐原まで遠漕に行って来るから、その間に君の方は書き上げ給え」
「よし、全速力で書いて見よう」
こんなことでとうとう久野は文科の舵手として競漕に出ることになった。
二
合宿所は言問《こととい》の近くの鳥金《とりきん》という料理屋の裏手にあった。道を隔てて前と横とが芸者屋であった。隣りには高い塀《へい》を隔てて瀟洒《しょうしゃ》たる二階屋の中に、お妾《めかけ》らしい女が住んでいた。朝などはその女が下婢《かひ》に何とか言いつけているきれいな声が洩《も》れたりした。しかし合宿所を引き上げるまで、とうとうその女は姿を見せないでしまった。芸者屋の方では、こっちが朝九時ごろ起きて二階の雨戸を開《あ》けでもすると、向うの二階で拭《ふ》き掃除《そうじ》をしていた女たちが、日を受けてるので眩《まぶ》しそうにこっちを見やりながら、微《かす》かな笑《え》みを送ったりした。稀《まれ》には「大変お早いんですねえ」などと言っても見た。雨の日などにはその家の妓が五人ほど集まって、一緒に三味線のお浚《さら》いをし出した。雛妓《おしゃく》の黄色い声が聞えたり、踊る姿が磨硝子《すりガラス》を透《とお》して映ったりした。とうとうお終《しま》いには雛妓が合宿へ遊びに来るようになった。そいつが「書生さんて随分大口をきくわね」なんぞと大人びたことを言った。……何だかすべてが久野には妙な落着きがないちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な周囲であった。
初め久野が合宿へ行った時、皆遠漕から前日に帰って、初めて練習を了《お》えたところであった。久野は皆の顔のひどく黒いのにびっくりした。あんな穏やかな初春の日光が、四日間照りつけたからと言って、こう黒くなるとは到底信じることが出来なかった。久野が入って行くとその六つの黒い顔が一様にこっちへ向いて、「いやあ」と言ったなり飯を食い初めた。窪田は遠漕の話をぼつぼつしながら、「何しろ四日間ずっと天気がよかったんだからなあ。春の方がずっと日に焼けるよ。一つには油断して日に顔を晒《さら》すせいもあるし、徐々と焦げて来るんですぐ脱《お》ちないせいもある」などと言った。
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