身が入らないんです。それに何でしょう。競漕なんてものは一度はやって見ると面白いものですよ。合宿生活なんぞも学生のうちでなければ、到底味わうことが出来ない経験ですからね。あなただってやって決して損なことはありません。きっと請け合います」
「そうだ」窪田もそれに力を得て口を添えた。「創作でもするっていう人ならなおさらのことだよ。たまにはこういう団体生活もして見るさ。合宿生活なんてものは、全く単純で原始的で面白いものだよ。ある種の獣的な生活だがね。是非一度はやって見る必要があるよ」
「それあ僕だって好奇心の動かぬことはない」と久野は答えた。「しかし何しろ脚本も書きかけているんだし、それに舵を曳いた経験も古いことだからなあ。僕に堂々たる文科の選手なぞが勤まりはしないよ」
「それあ大丈夫だよ」と窪田がようやく久野の心の動き出したのを見て言った。「その点については心配することはない」
「全くそれは大丈夫です」津島も窪田の後から言い足した。
「窪田君のような隅田川の河童《かっぱ》がいるんですから、万事この人に任かせておくといいです」
「河童が川流れをするようなことはあるまいね」と久野は自身で、警句のつもりで言った。
「君が選手に出てくれなくちゃ流れるんだ」と窪田は久野の調子に引き入れられて彼には不似合いな冗談を入れた。
「全くです。流れかかってるんですよ。だからお願いします。溺《おぼ》れかかった人は藁《わら》でもつかむと言うじゃありませんか」と津島まで突拍子もないことを言い出した。
「じゃ僕を藁にしようと言うんだね」と久野は笑い続けた。「掴《つか》んで見てから無駄だったって後悔し給うな」
「大丈夫。助けると思ってどうか頼む」
「じゃ一つ甘んじて諸君の藁になるとするかな。しかし他の奴《やつ》らはまた久野が野次性を出し初めたと言うだろう」
「言ったって平気じゃないか」
「うむ、それは平気だ。芸術家の第一歩はすべてのものに好奇心を動かすのにあるんだそうだからね」
「全くです。全くです」と津島は久野の心持がまた変りでもすると大変だと思って、念を押した。「じゃ出て下さるんですね」
「まだ思案最中なんですよ」と久野は快答を与えるのが惜しいような心持で言いながら、首を俛《うなだ》れてみた。「何しろ書きかけてるんだからなあ」
「一体いつごろまでに出来るんだい」
「十五日までには書き上げる予定なん
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