だ」
「じゃ十六日からでいいから出てくれ給え。そうすれば正味二十五日間の練習だよ」
「じゃ十五日までに書き上げられたら出るとしよう」
「よろしい。ありがとう。これでやっと安心した。では僕らは明日から四日間佐原まで遠漕に行って来るから、その間に君の方は書き上げ給え」
「よし、全速力で書いて見よう」
 こんなことでとうとう久野は文科の舵手として競漕に出ることになった。

     二

 合宿所は言問《こととい》の近くの鳥金《とりきん》という料理屋の裏手にあった。道を隔てて前と横とが芸者屋であった。隣りには高い塀《へい》を隔てて瀟洒《しょうしゃ》たる二階屋の中に、お妾《めかけ》らしい女が住んでいた。朝などはその女が下婢《かひ》に何とか言いつけているきれいな声が洩《も》れたりした。しかし合宿所を引き上げるまで、とうとうその女は姿を見せないでしまった。芸者屋の方では、こっちが朝九時ごろ起きて二階の雨戸を開《あ》けでもすると、向うの二階で拭《ふ》き掃除《そうじ》をしていた女たちが、日を受けてるので眩《まぶ》しそうにこっちを見やりながら、微《かす》かな笑《え》みを送ったりした。稀《まれ》には「大変お早いんですねえ」などと言っても見た。雨の日などにはその家の妓が五人ほど集まって、一緒に三味線のお浚《さら》いをし出した。雛妓《おしゃく》の黄色い声が聞えたり、踊る姿が磨硝子《すりガラス》を透《とお》して映ったりした。とうとうお終《しま》いには雛妓が合宿へ遊びに来るようになった。そいつが「書生さんて随分大口をきくわね」なんぞと大人びたことを言った。……何だかすべてが久野には妙な落着きがないちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な周囲であった。
 初め久野が合宿へ行った時、皆遠漕から前日に帰って、初めて練習を了《お》えたところであった。久野は皆の顔のひどく黒いのにびっくりした。あんな穏やかな初春の日光が、四日間照りつけたからと言って、こう黒くなるとは到底信じることが出来なかった。久野が入って行くとその六つの黒い顔が一様にこっちへ向いて、「いやあ」と言ったなり飯を食い初めた。窪田は遠漕の話をぼつぼつしながら、「何しろ四日間ずっと天気がよかったんだからなあ。春の方がずっと日に焼けるよ。一つには油断して日に顔を晒《さら》すせいもあるし、徐々と焦げて来るんですぐ脱《お》ちないせいもある」などと言った。
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