かかったと言うのである。そして皆が大声をあげてなお詳しく語り続けようとした時、急に選手の一人が誰れか艇庫の戸口に立聞きしている人を見出して小声で注意した。咄嗟《とっさ》の謀計で久野はわざと大声に「なあに心配することはないよ。向うが五秒早くたってこっちの条件《コンディション》が悪るかったせいだよ」と言ってやった。艇庫の戸口の暗いところに立っていたのは農科の舵手の高崎らしかった。
こんなことがあるうちにも競漕はますます近づいて来つつあった。
四
競漕の日は来た。空は朝から美しく晴れ上った。学校の事務室から小使が早くやって来て、合宿の前へ樺色《かばいろ》の大きな旗を立てた。それがひどく晴れがましく見えた。
選手らは朝八時ごろに一度手馴らしに艇を出して、一と漕ぎして来るはずであった。皆はいつもと違った心持で艇に乗った。しかし艇はいつもの通り緩《ゆる》やかに滑り出す。そして窪田の命令で珍しく小松宮別邸の下で小休みをした。その時傍を過ぎた伝馬《てんま》の船頭が急に何か見つけて騒ぎ出した。何だろうと思って見ると艇とその船の間五間ばかり先きを一つの黒いものが浮いて流れて行く。船頭らは「土左衛門だ。土左衛門だ」と叫んでいるのであった。皆はこの時只黒い棒杭《ぼうぐい》のような浮游物《ふゆうぶつ》を瞥見《べっけん》した。やがてこんな時に迷信を持ちたがる久野が「今日は勝った」と言い出したが、それが何だか妙な不安を与えたことも争われなかった。
そこで彼らは白鬚橋《しらひげばし》下から三分の力漕をして大連湾まで行った。いつの間にかそこらの陸にはほんとの春が来ていた。傍の工場主の邸《やしき》らしい庭内では椿《つばき》の花がぱっと咲いていた。もう水神のあたりに桜は乱れていた。誰れかが「もうここも見納めだぞ」と言った。何でもない言葉だが皆はその時の感動を笑いに紛らした。そしておのおの油のような川の面や、青み渡った向う岸の蘆や、霞《かす》んだ千住の瓦斯槽《ガスタンク》なぞを見やった。
「どうだ皆体の工合は。昨夜よく寝たか」と窪田が皆に訊ねた。そして彼自身も「俺《おれ》はほんとによく寝たぞ」と言った。後に聞いたところによると彼はその夜再発しかかった中耳炎に悩まされて、ろくろく眠れなかったそうである。けれども士気の沮喪《そそう》を慮《おもんぱか》って彼はあらぬ嘘《うそ》を言ったのであ
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