のほか何も見なかった。一分、二分、三分……。やがて彼らは漕ぎ止めた。久野は敵のスタートとストップの位置をもう一応確かめて、漕いだ本数及び時間を頭脳の中にしっかり記憶した。そしてほっと息を吐《つ》いて妙な快感を感じながら立ち上った。
久野が満足して渡しを渡って向うの汽船発着場へ行くとそこに法科の先輩が立っていた。そして「やあ今日はスパイかい。今ここから三分力漕した農科を見たかい」と聞いた。久野は笑ってうなずいた。
翌《あ》くる日の夕方、文科の短艇《ボート》はわざわざ漕ぎ帰る時間を早めて、昨日の農科と同じ時刻に同じコースを三分間力漕して見た。そして敵の艇が思ったよりよく出るのを知った。久野は何だか自分の艇も誰れかに偵察《ていさつ》されてるような気がして、仔細《しさい》に両岸を望遠鏡で調べた。しかしそれらしいものは誰れもいなかった。昨日久野が潜んでいたあたりは、今日は夕方から曇ったのでただ茫《ぼう》と黄色い蘆が見えるだけであった。
いよいよ季節に入ったので高商、明治という工合に次ぎ次ぎ競漕会が行われた。そうなって来ると勝敗が他人事ではなく思われて来る。大学の各科でももうレースコースを漕ぎ出した。文科も予定通り五分の力漕まで漕ぎつけて、競漕の三日前からレースコースをやることになった。もうこう差し迫っては泣いても吠《ほ》えても追いつかない。そこで正々堂々と衆目環視の中に競漕水路を漕ぐのである。土堤《どて》の上では野次が寄ってたかった。敵味方の漕力を測ったり比較したりする。だんだんいわゆる土堤評というものが出来上ってくる。それが初めは農科必勝ということに傾いていた。ところが今になって見ると文科の選手もなかなか侮れないという風に形勢が変りかけている。
久野と窪田らは気が気でない。出来るだけうまく漕いで自分らにも自信をつけ、敵へのデモンストレーションをしようと思うからである。敵の漕いだ時間は土堤で先輩や応援の誰れ彼れが測ってくれている。その日文科では農科の漕いだあと十分ばかりしてから薄暮を縫うて漕いで見た。五分十五秒かかった。皆は思いのほかかかったのに落胆して、しおれながら艇を一番最後に艇庫へ入れた。そこへ岸にいた先輩や津島君なぞが喜色を湛《たた》えて入って来た。「大丈夫だ。もう勝った」と口々に言っている。聞けば農科の方がコンディションがいいにもかかわらず、五分二十秒以上
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