堅がどれだけ漕力があるか試《ため》そうと思って、ラストで思いきり急にピッチを上げて見た。そして敵手のなかなか侮れないのを知った。
 その時の競漕では久野や窪田のいる文科勢の五人の艇の方が勝った。久野は初めて競漕行路《レースコース》の舵《かじ》を曳《ひ》いて見るの機会を得た。

 その日のころから練習はいよいよ激しくなって行った。先輩がしげしげ来て選手を励ましたり、みずから間諜《スパイ》となって敵の選手の漕力を測ったりした。ある日久野は舵を水原という先輩に頼んで、自身でスパイに出たことがあった。彼は綾瀬口の渡しを越えて向う河岸の枯蘆《かれあし》の間に身を潜めながら、農科の艇の漕ぎ下るのを待っていた。妙な緊張した不安に襲われながら、彼は少し湿々《じめじめ》した土地に腰を下ろして夕日の中に蹲《うずく》まった。目の前は千住の方から来た隅田の水が一うねり曲って流れ下る鐘ヶ淵の広い川幅である。幾つかの帆や船が眼の前を静かに滑べって行く。向う岸には紡績の赤い壁がぱっと日を受けて燃えている。彼はそれを越えて遠く春には珍らしい晴れ渡った東方の空と、そしてさらに頭上高くの白黄色を帯びた無限の天空をずっと仰いだ。何だか珍らしいものを見るような気持でしばらくは我を忘れていたが、ふと自分の任務を思い返して上流の方をすかして見た。するといつの間に来たものか鐘ヶ淵の汽船発着所の上手《かみて》に農科の艇らしいのが休んでいる。急いで望遠鏡を取り出して眺《なが》めると、舵手の着ている目印の黒マントルがはっきり鏡底に映じた。彼ははっと思って蘆の間に身を潜め、四辺《あたり》を見巡して微笑《ほほえ》んだ。ここに敵の一人が見ているとも知らず、そのうち彼らは動き出した。整調の櫂《オール》につれて六本の黄色い櫂がさっと開いて水に入った。久野は片手にストップ・ウォッチを持ち、片手に望遠鏡を押えて息を殺した。彼らは手馴《てな》らしに数本を漕いだ後、今や力漕に入ろうとしている。「さ行こう!」と言う舵手の声がはっきり久野の耳に入った。彼は急いでストップ・ウォッチの釦《ボタン》を押した。針はこちこち秒数を刻み初めた。一本、二本、三本……。敵の艇は水を切って彼の眼前一町ほどのところを鮮《あざや》かに漕いでゆく。三番がスプラッシュをして櫂で水を跳《は》ね上げるのまではっきり見える。彼は夕日の掠《かす》めた川面を一直線に走る敵艇
前へ 次へ
全18ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング