1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moires Abre'ge's de l'Acade'mie de Stockholm, p. 28.〕
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 ロシアにおける年結婚の全人口に対する比率は、ヘルマン氏によれば、都市においては約一〇〇分の一、地方においては約七〇ないし八〇分の一である。トゥック氏によれば、彼が表を有っている十五県においては、この比率は九二分の一であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] View of Russ. Emp. vol. ii. b. iii. p. 146.
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 これは他国と著しくは異ならない。なるほどペテルスブルグではこの比率は一四〇分の一であるが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、しかしこれは前述せる、女子よりも男子の数が非常に多いという事実によって、明かに説明されるのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moire par W. L. Krafft, Nova Acta Academiae&, tom. iv.〕
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 ペテルスブルグ市の記録簿は全く信頼し得るものということになっているが、これは、気候の一般的健康性を証明する傾向がある。しかしそれに記録されている事実で、他のすべての国で観察されている事実と正反対なものが一つある。それは女児の死亡率が男児のそれよりも遥かに大であるということである。一七八一年ないし一七八五年の期間に、出生男児一、〇〇〇の中《うち》、満一年未満の死亡は一四七に過ぎないが、女児のそれは三一〇である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。これは一〇対二一という理解し得ない比率であり、その前の期間では比率は一〇対一四に過ぎないのであるから、これは実際ある程度偶然的なものであったに違いない。しかしこの一〇対一四という比率ですら、女子の死亡率は、子供を産む時期を除けば、常に男子より低いと一般に認められているのであるから、極めて異数のことに属する。スウェーデンの気候はロシアの気候と非常に違うとは思われないが、ワルゲンティン氏は、スウェーデンの統計表について、女子の死亡率が低いのは、単に生活が規則的で苦労が少いということによるのではなく、また幼年期から老年期に至るまで一貫して作用する自然的法則なのであることが、この表からわかる、と云っている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Ibid.
 2)[#「2)」は縦中横] 〔Me'moires Abre'ge's de l'Acade'mie de Stockholm, p. 28.〕
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 クラフト氏によれば1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、ペテルスブルグで生れたものの半数は二十五歳まで生きるが、これはかかる大都市としては、若年時の健康度が異常によいことを示すものである。しかし、二十歳以後は、他のヨオロッパ都市のいずれよりも遥かに大きな死亡率が生ずるのであり、これは間違いなくブランデイの暴飲によるものである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。十歳ないし十五歳の死亡率は極めて低く、この期間の死亡は男子は四七分の一、女子は二九分の一に過ぎない。二十歳ないし二十五歳の死亡率は極めて高く、男子は九分の一、女子は一三分の一である。統計表は、この異常な死亡率は主として肋膜炎、高熱、及び結核によって生ずることを示している。すなわち肋膜炎で総人口の四分の一、高熱病で三分の一、結核で六分の一が斃《たお》れる。三者を合計すると死亡総数の七分の五となる。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Nova Acta Academiae&, tom. iv.〕
 2)[#「2)」は縦中横] Tooke's View of the Russian Empire, vol. ii. b. iii. p. 155.
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 一七八一年ないし一七八五年の期間における一般死亡率は、クラフト氏によれば、三七分の一である。その前の期間では三五分の一であり、その後の伝染病の流行した期間では二九分の一であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この平均死亡率は大都市としては低いが、クラフト氏の文の一節から見ると2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、病院、刑務所、及び育児院における死亡が、全然除外されているか、または正確に与えられていない、と信ずべき理由がある。そして疑いもなく、これらの死亡を入れれば、この都市の外見的健康性は非常に違ったものとなることであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 151.
 2)[#「2)」は縦中横] Id. note, p. 150.
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 育児院だけでも、死亡率は法外に大である。正規の統計表は発表されず、また口頭による報告は常に不確実を免れない。従って、私がこの問題について集めた報告は信用することが出来ないが、しかし、私がペテルスブルグの育児院の附添人について行った最も綿密な調査によれば、一箇月につき一〇〇人というのが一般平均であることを知った。その前年の一七八八年の冬には、一日に一八人を埋葬するのは珍らしいことではなかった。一日の平均収容数は約一〇人であり、そして彼らは育児院に三日を過した後、全部養育のため田舎へ送られるのではあるけれども、しかし、その多くは瀕死の状態で連れてこられるので、死亡率は必然的に大とならなければならぬ。従って収容数なるものはほとんど信じ得ないように思われるが、しかし私自身の実見したところからすると、私は、この比率も前記の死亡率も、事実を去ること遠からざるものと考えたい。私は正午頃育児院にいたが、ちょうど四人の子供が収容され、その一人は明かに死にかかっており、もう一人は余り永生きしそうもなかった。
 育児院の一部は産科院に当てられており、やってくる女は誰でも入院を許され、何の質問もされない。かくの如くして生れた子供は、育児院の保姆《ほぼ》によって育てられ、他の子供のように田舎へは送られない。母親は、望むならば、育児院で自分の子供に対し保姆の役目をすることが出来るが、しかし子供を連れ帰ることは許されない。育児院に連れられてきた[#「きた」は底本では「た来」]子供は、親が子供を養い得ることを証明し得るならば、いつでも取り返すことが出来る。そしてすべての子供は収容の際に、標識と番号を附けられるが、それは、親が子供を取り返し得なくとも、訪問することは許されているので、要求のあった時は子供を判別して引き合させるためなのである。
 田舎の保姆は一箇月わずかに二ルウブルを貰うに過ぎないが、現在紙幣ルウブルは半クラウン以上のことは滅多にないから、わずか一週約十五ペンスに過ぎない。しかも費用総額は一箇月一〇〇、〇〇〇ルウブルであるという。この施設に属する正常の収入ではとてもこれだけの額には達しないが、しかし政府自身がこの事業を全部引受け、従って費用の不足は政府がすべて負担している。子供は無制限に収容されるので、費用もまた無制限であることが絶対に必要である。子供の収容が無制限であり、しかもそれを養う資金が限られているのなら、最も恐るべき害悪が生じなければならぬことは明かである。従ってかかる施設は、もし適当に経営されるならば、換言すれば、異常な死亡率が急速な費用の累積を妨げないならば、極めて富裕な政府の保護の下でなければ永続し得ないものであり、そしてかかる保護の下においてすら、その失敗の時期は、決して遠くはあり得ないのである(訳註)。
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〔訳註〕最後の『その失敗の』云々以下の所は、第二版では、『最終的には限度がなければならない』という、より[#「より」に傍点]弱い形をとっていた。
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 田舎へやられた子供達は、六、七歳になると育児院に帰ってき、そこであらゆる種類の仕事や手芸を教えられる。普通の労働時間は、六時から十二時までと、二時から四時までとである。女児は十八歳、男児は二十歳または二十一歳でそこを出る。育児院が一杯になり過ぎた時には、田舎にやられた子供の若干は連れ戻されない。
 主たる死亡はもちろん、収容されたばかりの幼児及び育児院で養われている小児の間に生ずる。しかし田舎から連れ戻された血気盛りなるべき年齢のものの間にも、かなりの死亡がある。私は、どの室《へや》も非常にさっぱりと清潔で気持のいいのに大いに打たれて後、このことを聞いていささか驚いた。育児院そのものは宮殿のようであり、どの室も大きく風通しがよく、優美でさえあった。私は一八〇人の男児が食事をしている時に居合わせた。彼らはいずれもきちんとした服装をしていた。卓布は清潔であり、各自は別々にナフキンをもっていた。食事は非常によく、室の中には不愉快な臭いは全然なかった。寄宿舎には、各自に別々の寝床があり、寝台は鉄製で天蓋やカアテンはなく、掛け布団やシイツは特に清潔であった。
 大きな施設ではこんなにさっぱりしていることはほとんど考えられぬことなのであるが、これは主として現皇太后に負うものであり、皇太后は経営のあらゆる点に関心をもち、ペテルスブルグ滞在中は一週間に一度自ら視察されぬことは滅多にない。これほど余すところなく注意が行届いているのにこれほどの死亡が生ずるのは、幼少年の体質が蟄居と一日八時間の仕事に堪え得ないことの、明かな証拠である。子供達はいずれも蒼白くひよわい顔をしており、そしてもしロシア人の美醜が育児院の女児や男児で判断されたとしたら、それは非常に不利なことであったであろう。
 もし育児院に属する死亡が除外されるならば、ペテルスブルグの死亡表は、健康度に関するこの都市の実情にいくらかでも近いものを表わすことの出来ないことは、明かである。同時にまた、子供の養育が少しでも困難だと思うものは、ほとんどすべて、その子供を育児院に送ってしまうのであり、そして安楽な境遇にあり、快適な家と風通しのよい境遇に生活する子供の死亡率がもちろん、生れた子供全体の一般平均より遥かに低い――これはおそらく事実であるが――ということを吾々が附言しない限り、この都市の健康性を証明する若干の観察、例えば死亡数の千分率等は、この事情によって影響を蒙るものではないことを、想起しなければならない。
 モスコウの育児院は、ペテルスブルグのそれと全く同一の原理に基づいて経営されている。そしてトゥック氏は、その設立より一七八六年に至るまでの二十年間にここで生じた驚くべき小児死亡を報告している。これについて彼は、もし吾々が、収容後直ちに死んだもの、または病原を持ち込んできたものの数を、正確に知るならば、死亡数のうちわずか小部分が正当に養育院に帰し得ることが、おそらくわかるであろうが、けだし、健康な活動的な勤勉な市民を年々ますます数多く国に与えている慈善的施設の故に、かかる死亡者が出るのである、と主張するほど、不合理な人はいないであろうから、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] View of the Russian Empire, vol. ii. b. iii. p. 201.
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 しかしながら私には、この幼児死亡の最大部分は、慈善的と誤称されているこれらの施設に、明かに帰せらるべきものであると思われる。もしロシアの都鄙における幼児死亡率について与えられている報告が、少しでも信頼し得るとすれば、それが異常に小であることがわかるであろう。従って育児院においてそれが大であるのは、何にもまして母親の慈愛深い養育が必要な時に母親に子供を手放すことを奨励するところの施設のせいに帰して、間違いがないであろう。幼児のかよわい生命は、
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