、彼が従来所有していた土地は二家族を養い得るものと考えられ、その土地の半分を取り上げられるという結果になるからである。かかる事態の結果として、怠慢な耕作が生ずることは容易に考え得るところである。隷農が従来使用していた土地を多く取り上げられると、彼はその租税を支払い得ないと訴え、自分か息子達が租税を稼ぎ出すために、都市に出稼ぎに行く許可を要求する。この許可の願出は一般に熱心に行われ、また領主は人頭税が若干増額するのを考えて簡単に許可を与える。その結果として、田舎の土地が半ば耕作されたままに放棄され、人口の真の源泉はその根本において害されるのである。
ペテルスブルグの一ロシア貴族は、私がその所領の管理につき二、三の質問をしたところが、それが適当に耕作されているかどうかを聞いてみたこともないと云ったが、彼はそんなことは自分が全然関しないことと考えているように思われた。『それは私には同じことだ。それは私にはよくもなければ悪くもない。』と彼は云う。彼はその隷農がその租税をどのようにしてまたどこで稼ぎ出そうとも自由であるとして許し、そして租税を受取りさえすれば満足なのである。しかしこのような管理法によって、彼が、安逸と現在の利益とのために、その所領の将来の人口と、従ってまたその収入の将来の増加とを、犠牲にしていることは、明かである。
しかしながら、近年多数の貴族が、この国の耕作の進歩に最大の努力を払ったカザリン女帝の教訓と先例に主として刺戟されて、その所領の改良と人口増加とにより[#「より」に傍点]多く留意するに至ったことは、確かである。女帝は多数のドイツ移民を招致したが、これは啻に人口を奴隷に代えて自由市民たらしめるに寄与したのみならず、更に、おそらくもっと重大なことであるが、ロシアの農民に全然未知のものたる、勤労と、その勤勉の発揮方法との、範例を打樹《うちた》てるに寄与したのである。
かかる努力は全体として大成功を収めた。そして先女帝の治世とその後とで、ロシア帝国のほとんどあらゆる地方に、耕作と人口との著しい増加が進行中であることは、疑い得ないところである。
一七六三年には、人頭税による人口推算は、一四、七二六、六九六という人口を示し、同じく一七八三年のそれは、二五、六七七、〇〇〇という人口を示しているが、これは、もし正確であるとすれば、極めて莫大の増加を示す。しか
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